思い出せない……それが問題だ。

日々の楽しみ

認知症の父と暮らすようになって、もうすぐ1年と5ヶ月。
ときどき、自分もじゃないか?という気がしてきてしまうのが、すごく煩わしい。

特に朝。「今日は何日だ?」「今日は何曜日だ?」「今朝の迎えのバスは何時だ?」……と父はひっきりなしに聞いてくる。ひどいときは、分刻みで同じ質問を投げてくるのである。
しかし分刻みで連投されるときは、呆れながらも同じ答えを返せばいいだけだから、むしろ問題はない。煩わしいのは、こちらが何か別のことに集中しているとき、例えば、デイサービスの連絡帳に連絡事項を書いていると洗面所にいたはずの父が急に傍に来て「バスは何時だったか?」と聞いくるときだ。「あれ、8時40分だっけ? 33分だっけ?」と覚束なくなって送迎時刻表をあらためてチェックせざるをえなくなる。ついさっきまで、すぐに答えられたのに。やれやれ、私も危ないんじゃね?と思うのは、そんなときだ。

ほかにも「私も危ないんじゃね?」と思うことが、キッチンでよく発生している。
普段は食器棚の下の段に入れている小皿が上の段に置かれている、とか、ちりめんじゃこのジップ付きの袋のジップ側ではない下部がハサミで切られていてクルクルと巻かれてクリップで留められていたりするのを見ると、「また、やりやがったな」と私は姉の仕業だと疑うのであるが、姉に聞くと「私はやってないよ」と言う。で、私のキッチン滞在時間と姉のそれを突き合わせて推理すると、たしかに姉にはアリバイがあったりする。となると、犯人は私か?……しかし、記憶がない。
でもまぁ、いつも父母の介護雑務と家事と仕事のはざまで慌ただしい時間を送っているのだから、そのくらいの微細なミステリーを気にしてはいられない、と気持ちを立て直しながら毎日を過ごしている。

そのような小事件が多発する昨今、自らの記憶力の低下に抗うために気をつけていることがある。
会話のなかで「アレ」「ソレ」「アソコ」を多用しないこと、そして、つい使ってしまったときはちゃんと「ソレ」が何かを解明しておくことだ。そうしないと、ズルズルと危ない領域が拡大してしまう不安が胸に広がってくるからなのだが、しかし、それがまたアラ還姉妹のあいだではなかなかの厄介事であり、「アレ」や「アソコ」の探求のために多くの時間が費やされているという恐るべき現実がある。

つい先日も、以下のような会話で、夕食後に一定以上の時間が費やされた。妹が送ってくれた「わかさいも本舗」の「おいしいおまんじゅう」という、黒糖味の茶色の皮にこしあんが包まれているお饅頭をデザートに食べていたときのことだ。

姉:これもおいしいけど、お饅頭といえば草津温泉のお饅頭もおいしかったよね。
私:うんうん、草津の仕事があった頃、よく食べたねー。あと、小さいお饅頭、アレ、どこのだったっけ?
姉:あー、アレね、えーと……
私:あー、富山だっけ?金沢だっけ?
姉:いや、違うな、アソコアソコ、ほら、ソレとは違うけど私の大好きな和菓子のお菓子屋さんのあるところよ……
私:あー、あー、そうだそうだ、そうだね、アソコ、あれー、どこだっけ?
姉:ほら、あのお菓子は何て名だっけ、やだなぁ、大好きなお菓子なのに……
私:あー、あのお菓子ね、個装じゃなくて、切って食べるヤツね、えっとえっと……
姉:あ!あ!……「かも」!
私:えっ、違うよ、違うよ、「はも」!、あ、違うな、えっと……
姉:「あも」! 「あも」よ!笑笑笑
私:そうだ!やだよねー、私たち。「かも! はも! あも!」だって!笑笑笑
姉:そうそう、近江八幡よ、近江八幡の「叶匠壽庵」!
私:あー、でも、近江八幡のお菓子屋さんだけど、小さいお饅頭は「叶匠壽庵」じゃない!
姉:(スマホで検索)「たねや」!
私:そうそう、「たねや」!!!
(注:しかも叶匠壽庵は、近江八幡ではなく大津でした^ ^;)

認知症の人の心の中はどうなっているのか?』(佐藤眞一著)を読んで、記憶という情報処理のプロセスには「記銘(覚える)→保持(覚えた内容を忘れずにいる)→想起(保持した内容を思い出す)」の3段階があり、認知症の記憶障がいは一段階目の「覚える」で生じるのに対し、中高年の記憶力の衰えは三段階目の「思い出す」で生じることを私は学んだ。
それに照らし合わせるなら、まさに私たち姉妹の記憶力の衰えは「思い出す」にある。
とはいえ、「覚える」にも「忘れずにいる」にも、少なからず問題が生じてきていることを示す事象が増える今日この頃。
2023年も、抗いつづけねば。ふぅ。