91歳の父の不機嫌は、朗らかな大笑いで吹きとばせ!

日々の楽しみ

年寄りの不機嫌って本当に強烈で、うまく対処しないと、こちらもつぶれかねない」と作家の荻野アンナさんが『働くアンナの一人っ子介護』のなかで書いてらっしゃるのを読んで、「あぁ、うちの父だけじゃないのね」と、ちょっと安心した。だってほんと、しょっちゅう不機嫌なんだもん。認知症で不安がいっぱいだからかもしれないけど、マジで重苦しくて重苦しくてたまらんのですよ。
昨年8月に札幌から連れてきて同居するようになって半年が過ぎたけれど、いまだ毎日その不機嫌に手を焼いている。

困ったことに、不機嫌ってヤツはうつる。「もしかして、不機嫌ウイルスってのがあるんじゃね?」 って思うほど。
で、風邪と同じで、こちらが疲れて免疫力が弱っているときや、忙しさの山を越えてふと気が抜けたときなんかが危ない。そんな隙を狙ってウイルスはするりと入ってきて、気づいたときはすでに遅し……。
そんな具合なもんで、「え?私、なんでこんなに不機嫌になってるの?」と自省してみると、おおかたその源泉に父がいる。

散歩に出かけて富士山が見えなくて不機嫌になる、母に電話しても出ないから不機嫌になる、などというのは理由がはっきりしていて、まだいい。なぐさめようもある。
だけど、せっかく私が作ったけっこう美味しいご飯を食べていても不機嫌、喉が渇いたというからお茶をいれてあげたのに不機嫌、一人でボーッと休んでいたのに不機嫌、「顔洗って、歯磨きして」と言うだけで「うるせー」と怒鳴るetc.。
「おいおい、なんでそんなに不機嫌なんだよー」と横目で見ていると、濃い灰色のモヤモヤにいつのまにか私まで浸されて不機嫌になってしまっている。あー、やだ。

とりわけ、私が父の不機嫌に乗っ取られがちなのは、大きな声で父に話しているときだ。ということは、振り返れば2020年9月の父との会話を決裂させないコツが分かってきたかもにも書いていて、すでに気づいてはいた。だけど、依然として対策をしっかり立てられずにここまで至ってしまった。まずいぞ。

父は耳の聞こえが若干悪く、日によってはかなり悪い。まぁ91歳にもなれば当たり前といえば当たり前。なもんで、こちらは普段より大きめな声で一語一語はっきりと発音するよう努めているわけだけれど、自分でも不思議なことに声を張り上げているとなぜかカッカとしてくるのである。
しかもカッカしてきちゃったぞと感じつついる矢先に、父が「お前が言っていることはわからん」などと追い打ちをかけてくることがあって、仕方なくもっと声を張り上げて繰り返すと、「そう怒鳴るな!」と父が怒鳴り返してくる……なんてこともある。やだねぇ、もう。

そもそも「大きな声で話す=怒る」ではないはずなのに、どうしてか私は声を張り上げていると怒りモードになってしまうようだ。
思えば、半世紀を超える私の人生で、大きな声で話さねばならないシチュエーションなどほとんどなかった。「いらっしゃい〜らっしゃい!」と客引きする魚屋とか、「みなさん、こちらがかの有名な○○城です!」と旅行者を案内する添乗員とか、「はい、ここ、しっかり覚えてね、試験に出るよ!」と生徒に教える熱血の塾講師とか……職業によっては日常的に鍛えることができたであろう発声の基礎が私には培われていなくて、張りのある明るい大きな声で話すことができない。
で、なぜか声を張り上げると、反射的に怒りの感情が湧きだしてしまうみたいなのだ。

ということを再認識したので、とりあえず父に大きな声で話すときは、心のなかで「私は怒ってない、私は怒ってない」と意識するよう努めてみることにした。
で、やってみるとだいぶ違ってきたのだが、なにやら頭がごちゃついてしまう。話していることとは別のことを考えるというのは、かなり複雑なんだな、これが。

「もっとシンプルな方法はないだろうか?」と考えたところで、思い出した。
そうだ、アレだ! アレがあるじゃない!

私はかつて吉祥寺の月窓寺道場に合気道の稽古に通っていたことがあって、その稽古には「笑い」もあった。どういうものかというと、「あ」から「お」までと最後に「ん」の発音で思い切り大声で笑うという単純といえば単純な稽古だ。
「あ〜、は、は、は、は」「い〜、ひ、ひ、ひ、ひ」「う〜、ふ、ふ、ふ、ふ」「え〜、へ、へ、へ、へ」「お〜、ほ、ほ、ほ、ほ」「ん〜、む、む、む、む」と、30〜40人ほどが揃って大声で笑うと、道場の空気がビリビリふるえる。初めはびっくりしたし、まさに笑ってしまった。だって、おかしいんだもの。とくに最後の「ん」は、怪しい、すっごく怪しい。しかもみんなで揃ってやると、めちゃくちゃ怪しい。
けど、それをやったあとで心がスーッと爽快になったことに気づいたとき、とても驚いた。わざと大笑いするだけで、笑いの振動が体に広がっていって愉快な気持ちになってしまうのだ。ほんと不思議。

というわけで、父との会話が不機嫌対決じみた様相を帯びてきたときは、とりあえず「あ〜、は、は、は」でも「う〜、ふ、ふ、ふ」でも何でもいいから大声で笑ってみることにした。
やってみると、父は父で「お前はキチガイか?」などと言いながらも、「い〜、ひ、ひ、ひ」などと対抗してくる。で、ひとまず濃い灰色のモヤモヤは霧散することが実証された。
なかなかよい方法だ。

師曰く「怒り、恐れ、悲しみ、妬み、嫉み・・・対象に心がとどまると、このような念が生ずる。武道ではそのような状態を隙があるという。隙のない生活をすることが大切だ。しかし隙がないというのは構えることではない。構えると対象にとらわれて隙ができる。心が透明で、対象をよくわかっている。わが目の前に敵は在れども、心のなかに敵はなし。」(『氣の練磨 多田宏師範写真集』より)

なるほど私は「不機嫌の源泉に父がいる」だの「父の濃い灰色のモヤモヤにいつのまにか私まで浸されて不機嫌になっている」だの「父の不機嫌に乗っ取られた」だのと不機嫌の原因をすべて父に負わせてきたが、それこそが問題だったのである。すっかり父という対象に心がとどまりまくって、自分は隙だらけになっていたのである。その上、父と話しながら「私は怒ってない、私は怒ってない」なんて頭のなかで唱えることで、結果的には無用にガシッと構えてしまうことになり、結局がんじがらめの隙だらけになってしまっていたとは。やれやれ、修行が足りないのぅ。

さすれば今後は、「わが目の前に不機嫌な父は在れども、心のなかに不機嫌な父はなし。」の境地を目指すのみ。丹田に息をグッと溜めて「わっはっは」と笑って心を透明にし、毎日ご機嫌に過ごしていこうではないか。

ま、なかなかどっこい敵もさる者、そうそう簡単にはいかないこともあるだろうけど、楽しく修行していく所存です。