私たちは父母をどこで死なせてあげられるのか

気になること

年の瀬に、お菓子の差し入れと洗濯物のピックアップのために母のいる特別養護老人ホームに立ち寄った。

その特養のエントランスは大きなガラス張りになっていて、自動ドアの外扉も内扉もその両側の壁面も透明なので、外から近づいていくと内側の広々としたホールの様子が見てとれる。
いつもならガランとして人影がないホールに、その日は人がズラッと並んでいて、スタッフに加えて白衣姿の医師らしき人も含まれているようだった。

「ミーティングかな?」と私が思ったのは、父がお世話になっている近所のクリニックに新しい保険証かなにかを昼過ぎに届けに行ったときに、同じような場所で事務員さんも看護師さんも医師も揃ってズラッと立ってミーティングをしている光景を目にしたことがあったからだ。

しかし、そのとき外扉を入ったところで内扉に踏み込むのを躊躇したのは、なんとなくミーティングというよりも厳かな雰囲気を察知したからだった。どうしようか迷っていると、母の担当の相談員さんが出てきてくれて私が用件を伝えると、こう言った。

「お見送りがあるので、すみませんが、洗濯物を取ってくるあいだ外で待っていていただけますか? 」

差し入れのお菓子を相談員さんに手渡してから180度方向転換し、さっき入ってきた外扉から外に出ながら「お見送り」の言葉をぼんやりと頭の中で反芻していた私は、目の前に駐車してある白いワゴン車の後部ドアが開いたままになっているのを見て、「あ、そういうことか」と、やっと思い至った。
どなたかが亡くなって、そのご遺体がこの車で運ばれるということなのだな、と。

おりしも数日後、姉と私でその特養の入所説明を聞きに行くことになっていた。現在、介護サービスの枠組みとしては母は「ショートステイ」を利用しているのだけれど、「入所」のウェイティングリストで一位になったので、希望すればすぐにでも「入所」の手続きを取れるとの連絡が入ってのことだった。

説明によると、特養では「看取り」もしていて、実際に今年は10人弱の方がこの施設で息を引き取ったとのこと。最期が近づいたときには、コロナ禍でも毎日面会が可能になるし、自宅介護と自宅診療の体制を整えて家族のもとに引き取って看取ったケースもあるとのことで、いずれにしてもその特養の看取対応はとても評判が良いとのことであった。

まさに数日前に「お見送り」のシーンを見かけた私は、「このままコロナで面会がほとんどできないままで、もし母が急に衰えるようなことがあれば、最期くらいは家で過ごさせてあげられないかな」と考えて姉にも話していたので、まだそんな時期ではないし、実際に可能かどうかはわからないにしても、家に迎える選択肢があることがわかってなんとなくホッとした。

しかし、それにしても「最期」がいつ、どんなふうにやってくるかは予測ができないものである。
母は83歳。
父は92歳。
二人とも、いつ「お迎え」がきたとて不思議ではない年齢だ。

でも、父母が最期について何を望んでいるかは、全くわからないのである。高齢の父母のこれからの身の振り方についてに書いたように、母は完全に「あなたたちにお願いするわ。よろしくね」と主体的に考えたり判断することを完全に放棄しているし、方や父はといえば、そういった話になると「俺にそんなこと聞くな。お前は察しが悪い」なんて言っちゃって「自分はわかっているが教えない」風を装い、その実、病院と介護施設の区別もつかなくて考えられない&判断できないのだからタチが悪い。

日本財団の人生の最期の迎え方に関する全国調査報告書によると、「人生の最期をどこで迎えたいですか?」という質問に対して、「自宅で死にたい」と答えた人が6割程度。で、次点は「医療施設」の3割強。その一方で、最期の場所として「絶対に避けたい場所」としては「子の家」がトップで4割。「介護施設」が3〜4割で、年齢が高くなるほど「介護施設で死ぬのは嫌」と思っているという結果である。
うちの場合、困ったことに一昨年夏に札幌から父を私と姉が暮らしている所沢の家に連れてきて同居していて、昨年春に母を近所の施設に移動させた今となっては、父母にとっての「自宅」=「子の家」だ。調査結果によって一番「最期を迎えたい自宅」は、同時に「絶対に避けたい子の家」なのである。父母に向かって「どこで死にたいかシロクロはっきりさせて」と迫ったとて、はて、なかなか答えがたい問いなのかもしれない。

統計的には、7割以上の人が最期を病院で迎えている日本の現状。自宅は17%程度で、老人施設は10%程度に増えてきているようだが、これから父母がどんなふうに衰えて最期を迎えるかは流動的で断定できかねるわけで、何をしてあげられるか想像するのには、統計は役立ちそうでいてちっとも当てにならない。

父は日々、「しんどい」「だるい」「俺はもうダメだ」「もうすぐ死ぬ」と弱音を吐き、不機嫌ヅラを晒している。しかし、このところ食欲は旺盛、消化もまずまずのようで毎日ではないが排便もある。ふらつきが激しく、認知症の影響で運動機能や嚥下機能が低下しはじめたのではないかと心配ではあるが、「もう死ぬ」などと言ってくるたびに、「まだ死なない。老衰の場合、食べ物も飲み物も口にできなくなっても2週間くらいは死なないんだって。パパは全然、まだ死ねない」と言ってあげる、悪いけど。

父が不機嫌に「俺は大変なんだ。生きるか死ぬかの瀬戸際なんだ」などと言ってくることもあって、「死ぬのが怖い?」と聞くと「当たり前だ」と怒る。
そこで、私が「大丈夫、怖がらなくていいよ。死ぬのは難しくないから」と言うと、一瞬、ハッと救いを得たような眼差しで私を見るのだが、すぐに「なーに、わかったような口を聞くな、お前にわかるはずがない」とまた怒る。
そこで「いや、分かるよ。だって、死ぬのが難しくて死ねない人は一人もいないでしょ。頭がいい人も悪い人も、運動神経がいい人も悪い人も、誰だって、死ぬときは死ねる。だから、心配しない、怖がらない」と諭すと、「お前は適当なことばかり言う」とそっぽを向いてしまう。まぁ実際、適当なことしか言ってませんけど。

今朝は、パジャマが脱げずにもがいているので、頭が抜けずに首でとどまっているパジャマをグイッと引っ張ったところ、「おい、お前、首を絞める気か、まだ早いぞ」と父が叫んだ。「あら、もうそろそろじゃないかい?」と笑ってもっと強く引っ張るブラックな娘に、父は大笑いで応じるのであった。まだまだ最期は近くはなさそうだ。

でも、最期が来るときは、あっというまなのかもしれない。かかりつけ医が検査結果を見ながら言っていた。「この年齢、この数値ですから、インフルエンザにかかったりしたら、あっというまですよ」と。
ま、もしあっというまにポックリ逝けたら、それはもう「あっぱれ、おめでとう、よかったね」と言ってあげたい。

こんなことをブログに書いてるのを知ったら、不謹慎な娘だとさぞや怒るだろうけど。