福島第一原発事故から12年。政府が原発推進政策に舵を切ろうとしている今だからこそ、読みたい本。

気になること

岸田政権が『GX(グリーン・トランスフォーメーション)』という英語の略語名称をつけた政策の関連法案を、今国会(2023年1月23日〜6月21日)で強引に通そうとしている。
「グリーン」を織り込んで「エコ」っぽさを漂わせ、「GX」と短縮して煙に巻こうとする意図があからさまなネーミングだが、実際の中身は原発推進への舵切りという、全く納得のいかない政策だ。

そもそも、福島第一原発事故以降は、原発を減らしていくのが国のエネルギー基本方針になっていた。そりゃそうだろう。あんなに甚大な被害を出したのだ。12年経った今も、3万人以上もの人が避難している状況だし、廃炉の見通しも立っていないし、放射性物質汚染廃棄物の問題も解決できていない。なのに政府は突然、原発推進に方針転換するというのだ。納得しろというのが無理だ。

地震大国である日本では、人の命と暮らしを大前提にするならば、進むべき道は脱原発しかないだろう。核廃棄物をこれ以上増やさないことも、未来世代に対しての責務だ。だから、国民の意見・要望を募集する1月のパブリックコメントにも私は意見を送った。

パブコメの締め切りは1月20日から23日のあいだに集中していて、あいにく1月18日から体調を崩して寝込んでしまった私にはたいそうハードだったが、がんばった。
①原子力規制委員会、②資源エネルギー庁、③内閣官房、④原子力委員会の4機関が別々に提示する読みづらい文書を読み、FoE Japanが開催してくれたオンラインの「パブコメセミナー」や原子力市民委員会の声明などを参考にして、それぞれに意見を送った。
書きながら、「たぶん、ちゃんと読んではくれないんだろうな」と挫けそうになったけれど、だからといって諦めてはならない。「反対の意見はしっかりと伝えなくちゃ」と自分を鼓舞しながら書いた。

そんな折に手にしたのが、山秋 真著『原発をつくらせない人びと − 祝島から未来へ』(岩波新書2012年12月発行)。タイトルのとおり、山口県の祝島の人たちがいかに原発建設計画に反対したかの記録である。たくさんの勇気と粘り強さを分けてもらった。

祝島のおばちゃんたちは1982年から2012年の30年もの年月にわたって毎週欠かさずにデモを続けた。建設工事を阻止するために、船上や浜で、非暴力を貫きながら危険をかえりみずに中国電力や海上保安船の実行部隊と闘った人々もいた。貴重な海と自然を未来につないでいくことを第一に尊重し、アクションした人たちがいたのである。人々の強い意志と断固たる行為の記録を読み、「私も負けちゃいられない」と心を支えられた。

そして今回、この本からの学びの中でもとりわけ印象深かったのが、冒頭で指摘されていた、このことだ。
「日本の原発は、1966年に茨城県東海村で日本原子力発電(日本原発)が初めて営業運転を開始してから、1970年代に20基、80年代に16基、90年代に15基が稼働をはじめ、2010年末現在で全国に54基まで増えた(2012年11月現在50基)。だが、運転にいたった原発は、実は1970年までに計画が浮上したものに限られる。71年以降に浮上した計画はすべて、運転にいたっていない。運転どころか着工にも至らないまま、なくなった計画がほとんどだ。(中略)いっぽうで、原発をつくらせなかった地も30カ所以上ある(2012年11月現在、図参照)」

引用文の末尾に示されているように、次のページには「原発をつくらせなかった地」がプロットされた日本地図が掲載されていて、ここにもそこにも強い意志と断固たる行為を示してこられた人たちの存在が見てとれる。
「たとえば紀伊半島は、原発ゼロの地だ。和歌山県内で五カ所、三重県で四カ所と、半島各地で原発をつくる話がありながら、紀伊の人びとは、どの計画も止めている」という事実も、私はこの本のおかげで初めて知ることができた。
人生の多大な時間とエネルギーを「原発をつくらせない」ために地道な活動に費やしている人たちが各地におられたし、今もいらっしゃる。知れば、パブリックコメントを書くだけで挫けそうになってなんかいられないではないか。

祝島の原発反対運動に、『虹のカヤック隊』の隊長として参加していた若者の声も、この本に紹介されていた。忘れないように、ここに記しておく。

「僕はいま二四歳で、計画が浮上したときに生まれていなかった。まだ意志表示ができなかった若い世代が、計画に対して意志表示できないのはおかしい。原発は受け継ぎたくない。僕らに残された最後の意志表示の場が田ノ浦(*)なんです」

(*)田ノ浦は、中国電力が埋立工事に着手しようとして、反対する人たちと対峙した場所。