認知症92歳の父がこだわるPDC(A?)

気になること

認知症の父は、いつも不安。
「明日は何をする?」「朝の迎えは何時だ?」「車で迎えにくるのか?」「行ったら何をするんだ?」「帰りはどうするんだ?」etc.……イライラした調子で聞いてくる。
そして姉か私が答えても、すぐにまた同じ質問を繰り返すのである。

父が私たち姉妹と一緒に暮らすようになったのが2021年夏。それから1年半以上のあいだ平日はデイサービスに通うのがルーティーンになっているにもかかわらず、予定を覚えられない → 不安になる → 問う → 覚えられない → 不安になる → 問う → がエンドレス。

実は、そんな父の「覚えられない」をいいことに昨年11月後半からデイサービスに行く日を1日増やして月〜金の週5日のフル通所にしてもらったのだけれど、ちっともその変化に気づかず何も問うことなく通ってくれているw。自宅で仕事をしている私の負担が軽減されたので、ありがたいことである。

それにしても、いつもいつも時間と予定の確認をされると、こちらまで頭がグルグルして落ち着かず、面倒このうえない。
アバウトな私は、当日朝はさすがに何度でもきちんと答えてあげるけれど、明日以降のことは「どうせ忘れるから」と思って適当に答えたり話題を変えたり聞こえないふりをして場を外してしまうことすらある。
が、そのあたりは几帳面な姉は、何度もきちんと答えるうえに手帳にまで書いてあげたりしていて感心だ、えらいぞ。

4月中旬からは、母が「小規模多機能施設」に移って週末に1泊か2泊を家で過ごせるようになり、そうなると、母の帰宅時間、自宅に泊まる、ご飯は一緒などに加えて翌朝の施設からのお迎え時間など記載事項が激増した。
で、手帳には書ききれないので、前日夜に姉は1枚の紙に予定を書き出してあげるようになり、こんな感じの流れができた。
姉が予定を書き出した紙を父に渡す → 父、しばらく大切にそれを眺める → それを丁寧にたたんでポケットに入れる(意外と几帳面) → ポケットにそれを入れたことを忘れて姉に予定を聞く → 「ポケットの中の紙を見て」 と姉が伝える。
姉としては予定の全部を復唱せずに「ポケットの中の紙を見て」だけで済む。ナイスアイデア。

そして母が家に泊まったある晩のこと。
母のおむつ替えと着替えにかかりきりの私の耳に、隣室で父が日記を書きたいというのでサポートしていた姉がゲラゲラ笑っているのが聞こえてきた。はて、何だろ?

姉曰く、昨日・一昨日と既に過ぎてしまった日々の予定の書かれた紙を「もう捨てていいよね?」と確認したところ、「いや、捨てないでくれ。PDCが大事だから」と父が言ったというのである。
父の言う「PDC」が「PDCA」の最後の「A」が抜けた「PDC」であると姉がすぐに理解できたのは、折々に父が仕事モードになってビジネス的用語を好んで使うからであり、シチュエーションからして容易に類推できたからである。
ご存知のように「PDCAサイクル」とは、「Plan計画→ Do実行→ Check評価→ Action改善」の4段階を繰り返しながら品質や業務を継続的に改善していく方法だ。しかしねぇ、父の日常をPDCAに当てはめる発想は、私たち姉妹にはなかった。っつーか、無理だし、それ。

というのも、「Plan計画」と「Do実行」のあいだにある「 → 」の部分に「(忘れる → 確かめる→ 忘れる → 確かめる→ 忘れる)× 30回」とかがあり、「Do実行」と「Check評価」のあいだにある「→ 」の部分に「 忘れる → 父がデイサービスでやったことを私たちは知らん → 鼻歌が聞こえてくる → 『今日はデイで歌を歌ったのね?』と問う→ 『いや歌なんか歌ってない』と父が答える → でも、連絡帳に『うた』と書いてあるのを見つける」といった紆余曲折が入り込んで、とどのつまり「Check評価」の手前の事実確認ですらおぼつかないのである。無論、「Check評価→ Action改善」の工程などに至れるはずもないのだが、そもそも「A」は父の脳内ではあらかじめ削除されているから(あるいは父の時代は「A」がなかったから?)、まぁいいか。笑

そして月曜の夜、毎日1枚の紙に予定を書くのが面倒になった姉が、今週のそれぞれの日のお迎え時間と、事前に配布されているデイサービスの予定表に記されているアクティビティをまとめて書き出して渡した。
火曜「うた♪、お誕生会」
水曜「絵画、マッサージ、入浴」
木曜「書道、うた♪」
金曜「入浴、碁、マシントレーニング」ってな具合。

夕食後、しばらく父はその紙を大切そうに両手に持ってしげしげと眺めていた。その後、父は姉に問うたそうだ。

「こんなに毎日遊んでいていいのだろうか?」

そのあたりは几帳面な姉なので、こんなふうに答えたという。
「いいのよ、いいのよ、毎日遊んでいて。これまで長年ずーーーっと介護保険料を払ってきたんだから、しっかり介護サービスを受けるのは当然よ。しかもパパが通ってくれなかったら、私たちは仕事を続けられなくなって社会的損失になるでしょ。それにデイサービスで運動したり刺激を受けたりしなかったら寝たきりになる確率が高くなって、医療費も膨らんでしまうよ。介護施設での雇用も生んでいるのだし、遊んでいるって言っても地域交流なのだし」とかなんとか。

たしかに、そーだよね。
父がデイサービスに通う社会的意義を、かなり網羅してるんじゃね?

こちとら、4月から「小規模多機能施設」との日程調整やおむつ管理の実務やら、母のおむつ替えや車椅子とベッドの移乗などの体力勝負の実作業も加わって、もとより多かった介護雑務がさらに増加。その結果、仕事の時短度はさらに高まり、常にやり残し感が強くなって自己評価が低くなりがちな心に抗ってひたすら自分に「よくやった」「よくできました」と褒めまくってなんとか凌いでいるところだ。
そんなわけで、自分の「PDCA」はすでに「P」の外に追いやった。もちろん父の「PDC」とのお付き合いも私の「P」に入り込む余地はない。

というわけで、すまんが、そのあたりは几帳面な姉に采配はお任せするわ、よろしくね。