母よ、なぜあなたはボウルとザル10個を重ねておきたがるのか?

気になること

7月の中旬から3週間の予定で、札幌の両親の家に来ている。
北国なのに30度を超える真夏日が続き、熱帯夜も数夜続いたこともあり、夏バテが顕著な両親を見かねて、さらに3週間滞在を伸ばすことにした。

年老いた両親と生活しながら、うんざりしたり、おちゃらけたりしている様子は、先だって「どうやら私の両親は『喧嘩をするなら子どもの前で』を家訓にしたらしい」に書いた。

ほかにも、うんざりしたり、どうしたものか?と首をかしげたりすることが山ほどある。というか、四六時中そんなことばかりだ。

特に今回は滞在が長いので、つい、あちこちの物の整理にも着手してしまい、あれこれの判断にあたって母との間に衝突が起きる局面が多い。
よって、うんざり&どうしたものか?が日増しに増長していくのである。

そんなことなら放っておけば?と思うだろうが、私の性格上、そして母79歳・父88歳というシチュエーション上、放っておくことができない。

とりわけ放っておけないのは、私が「ご飯づくり担当」を遂行するうえでストレスが高まるキッチンの収納である。

流し下の棚、上の棚、食器棚、引き出しには、「捨てられない世代」の母が数十年に渡って詰め込んできた物たちが、これでもかこれでもかと潜んでいる。

バラエティに富んだ鍋類、調理道具類、瓶類、プラスチック容器類、漬物石類、布巾類、割り箸類、ストロー類、カトラリー類、ラップ類、キッチンペーパー類(注※うるさく「類」をつけたのは、その種類の多さを強調するため)、消費期限切れの素麺、うどん、粉、油など、年老いた父母の二人暮らしでは使い切れない物、物、物が、出てくる、出てくる、出てくるのである。

数日の滞在だと、パパっと料理して、ササっと片付けして、それで終わり。ドツボにはまる余裕はない。

しかし長期滞在になると、料理をするたびに、片付けをするたびに、イラつくのである。
パッとザルが出せない。なぜなら、いくつも重なっているから。
サッと棚の扉が閉まらない。なぜなら、余裕なく物が詰め込まれているから。
なんでこんなに物が詰まってるの⁉︎ キーーーーッ!

使わないものを無くせば、物事はシンプルになる

今回は滞在1週間目にして、ついに手を出した。
手を出した過程は、こんな成り行きだった。

ガス台下の棚には、頻繁に使う行平鍋が3つ重ねて入っていた。大、中、小、サイズの異なる3つである。

食後の皿洗いを終え、そこに行平鍋を1つ戻した。だが、扉が閉まらない。
私の入れ方がよくなかったのだ。というか、元どおりの位置に収められなかったのだ。

そこで、入れ方を直そうとしたのだが、奥に、フライパン、両手鍋、小鍋の分厚いガラス製のセットがつっかえているのがわかった。これでは、何度も扉が閉まらなくなってイラつくわけだ。
やれやれ。取り出してみないわけにはいくまい。

出していると、母がやってきた。
「あら、それは割れてるのよ」と、分厚いガラス製の小鍋を指して言う。
「そうなんだ」と私は答え、じっと母を見つめる。
無言のプレッシャーを感じ、母は言う。
「捨てていいわ」

次に、分厚いガラス製のフライパンと両手鍋に触れながら、私はまたじっと母を見つめる。
無言のプレッシャーを感じ、母は言う。
「もう使わないのよね、重いから」
「重いよね。私でも重い」と私。

母は、7年前に脳梗塞を発症して半身不随になり、利き手の右手が、自由に使えない。分厚いガラス製の鍋類を使うのは、とうてい無理だ。
「それに、ほとんど使ってないの、それ」と母。
「置いておく?」と私。
「捨てていいわ」と母。

奥のものが無くなると、行平鍋3つを、重ねずに置ける。
パっと出せて、パっとしまえて、もちろんサッと扉も閉められる。
よかった。ほんとうに、よかった。

母よ、最終的な判断をするのは、あなただ!

片付けに際しては、私は「捨てる?」とか「捨てていい?」とは、できるだけ言わないようにしている。なぜなら、私には前科があるからだ。

母が脳梗塞を発症して入院していたとき、東京からやってきた私は、母の半身がもう自由にならないとわかり、母に相談せずに食器棚の食器を大幅に処分した。

体が不自由な母が、縦にも横にも幾重にも重ねられている皿だの鉢だの湯のみだのを取ろうとして落とす→食器が割れる→怪我をする……という様子がありありと目に見えるようだったからだ。

しかし、相談せずに処分するのは良くない。いまでも悪かったと思う。
でもそのときの私は、滞在日数が限られた中で、なんとか母が退院してきたら安全に自宅で過ごせるようにしようと必死だった。

だけど以後、母は事あるごとに言うのである。
「あの鉢は○○のときに、△△△で買った高級品だった」
「この小鉢より、あっちの小鉢の方が気に入ってたのに」
「茶托が無いから、お客様が来たときに困る」
「使いにくいフライ返ししかなくて困る」
「あなたが捨てちゃったから」etc.etc.etc.

悪かったと思う、相談せずに捨てたのは。
でも相談していたら、絶対に処分できなかっただろう。
そして処分していなかったら、不自由な体であの大量の食器とともに、母はどうやって暮らしたのだろう?とも思う。今でもまだ、私から見ると、必要以上にたくさんの食器があるのだ。

できるだけ私から「捨てる?」と聞かないのは、そんな過去があるからだ。
最終的な判断は、母よ、あなたがするのよ、という姿勢をなるべく保持するようにしている。
「どうする?」「まだ使う?」と聞く、あるいは黙って見つめる。いずれにしても、母は決断を迫られるプレッシャーをひしと感じているだろう。

母よ、使いやすさを優先すべきだと私は思うよ

先ほどの行平鍋を入れる棚は、キッチンの調理台の右側にある。そして左側の流し下の棚もまた、しばしば扉が閉まらなくてイライラさせられていた。
こちらの場合も、やはり奥に、今となっては出番のない鍋類その他が詰まっていたからである。

奥に潜んでいたのは、両手鍋、大きな無水鍋、梅酒やラッキョウを漬けるのに使っていた瓶類、そしてすでに8年は使っていないこと確実な油濾しや砂糖の入ったプラスチック容器など。
それらは、物によっては酸化した油やラッキョウのすえた匂いをほのかに漂わせ、無防備に触れると手がベトベトする。石鹸とお湯で洗っても、なかなかベトベトは取れない。
いやはや、使われなくなって久しい物たちは切ない、哀しい。

そしてさらに、その手前左に鍋が2つ重ね置かれ、手前右に大小のボウルとザルが合わせてなんと10個も重ねて置かれていたのである。
それらの重なりの位置が微妙にズレると、扉に当たって閉まらなくなるのであった。

しかしそもそも、なぜ、大小のボウルとザルを10個も重ねておくのか、母よ?
使いづらいではないか。
私ですら、使いづらいのだ。半身が不自由なあなたには、さらなる苦痛だと思うのだが。

頻繁に使うボウルやザルは重ねずに置けば、どれだけ楽に調理ができることか。
十歩譲って、重ねても2~3個にすれば、どれだけイラつかずに済むことか。

しかも今となっては、ブロッコリーを茹でる、レタスを洗うくらいの調理をすることがやっとなのだ、母は。
「今日もスーパーでお惣菜を買ってきてもらったの」
「今日はコンビニのおにぎりを買ってきたもらったわ」
と日頃電話で聞くにつけ、栄養は足りているか食の楽しみを失ってはいないかと私たち姉妹は心配しているのだ。

そんな状況で、大小のボウルとザルが10個も必要なのだろうか?
せいぜい大中小3つのボウル、大きいザルと取っ手付きのザルが2つあれば充分ではないか?と私は思うのだ。

しかし、「全部使ってるの?」と問いただしても、無言で見つめてプレッシャーをかけても、母は「そのままにして」と言い張るのである。

だけど10個重ねのザルとボウルは、そのままにしておくわけにはいかない。まじ、使いづらいんだもん。イラつくんだもん。

「しばらく私がご飯を作るよね。これじゃストレス多すぎてやってらんない。このままにしろって言うなら、私、もうご飯を作れない!家に帰る!」……なんて語気強く言い放ってしまった。
まあ、そこまで言う必要ないんだけど。

でも言えば不思議と気は収まるもので、「とりあえず私がいるあいだは、私が使いやすいように置かせて」という妥協案を提示し、なんとか合意成立。
奥に潜んでいた油濾しと砂糖入りプラスチック容器と瓶類は、母が「捨てていいわ」と言うのでスペースができ、あまり使わない鍋をズラして置くことができた。

かくして前面に、よく使う大ザルを重ねずに1つ、大中小のボウルを3つだけ重ね、母がよく使うという中ボウルと取っ手付きのザルを重ね、その3セットを並べて置けるようになった。
めでたしめでたし。ひとまず、私はストレスなく料理ができるようになった。ああ、すっきり!

考えるのが面倒でも、できるだけ選択しようよ

キッチンの鍋類の処分で波風を立てた後、ふと思った。
いっそ、ギリギリの状態になって施設に移る、あるいは最期を迎えるまで、このままにしておけばいいんじゃないか?……と。

お互いに嫌な気持ちになるのなら、いっそこのままにして、気楽にテレビでも一緒に見ていた方がいいんじゃないか?……と。

でも、そう思った次の瞬間、「いやいや、その選択はないな」と確信する。

いずれのケースでも、やることが山ほど襲ってくることが予想される。
ギリギリの状態で施設に移る、あるいはどちらかが最期を迎える場面を想像してみれば、容易に思い至れることである。

そういう場面では、心を添わせてあげたくてもできないくらい多くの判断が迫られ雑務が降ってくることだろう。そんな時に、ベトベトする鍋だの数十年使っていない漬物石だのに足を引っ張られたくはない。

もちろん、その時はその時と割り切って、廃品業者に一絡げで処分してもらうという手もあるだろう。
でも、奥に潜むものを整理して使いやすくするのは、母の安全のためでもある。

これから母の体は、さらに不自由になることはあっても、逆に自由になることはないだろう。
だとしたら、頻繁に使うものを取りやすく、片付けやすくしておくことで、自力で生活できる時間を少しでも長くできるのではないかと私は願う。

母が、大小のボウルとザル10個を「そのままにして」と言い張るのは、「こうして長年やってきたんだから」という理由からだ。
しかし、これまでやってきたことがどんどんできなくなっていくのが高齢期である。「慣れているから大丈夫」は、そのままの状態を放置する理由にはならない。

年をとると、あれこれ対処しなくてはいけないことを考えるのが面倒くさくなる。今回、父母と一緒に過ごしていると、その面倒さ加減が肥大してきているのを実感する。

だけど、人任せにさせてはいけない、と私は思う。
できる限り、自分で考え、自分らしく生きる方法を模索してほしいと思う。それが生きることだと思うから。

「お夕飯、何にする?」と聞いても、二人とも「何でもいい」「別に食べたいものはない」と言う。
でも、私は今日も聞く。
「肉がいい?」「魚がいい?」

そして「次はどこを片付けようか」と考えを巡らしている。
洗面所の棚か、和室の押し入れか。
「これ何?」「これ、使ってる?」「置いておくの?」と粘りづよく、母に問いただそう。
そしてできれば、その物たちの由来や、その物たちへの思いも聞いてみよう。これだけ執着の強い母である。きっと語りたいことが山ほどあるはずだ。

いずれにしても、物たちと別れる日はくる。その日をいつ、どうやって迎えるのか、それは持ち主が自分で決めた方がいいと思う。少なくとも、奥にしまい込んだまま闇に葬ってしまうのは、物たちに申し訳ないと私は思う。