「ニュータウン」の時代背景を複層的に知るためには

気になること

金子淳著『ニュータウンの社会史』(青弓社2017年11月発行)を読んだ。

2018年春、私はかつて父母が所沢ニュータウンに建てた家に三十数年ぶりに出戻ってきた。小学生のときにピカピカだった新興住宅街は今はいかにも昭和なオールドタウン然としたくすんだ空気を漂わせていて、幼稚園や小学校が近所にあるので子どもの声は響いているものの、ゆっくりと歩く高齢者や高齢施設の送迎車のほうがより目立つ。

たまたま何のご縁か父母がここに家を建て、今、私は紆余曲折を経てここで暮らしている。祖先代々の地というわけではないのだが。
ときどき私は、「どうして父母はこのニュータウンに家を建てることになったんだろう?」と不思議に思う。「宅地開発される前は、どんな土地だったんだろうなぁ」と想像してもみる。
そして、「同時代に開発された各地に点在するさまざまなニュータウンは、これからどんどん加速して進んでいく少子高齢化・人口減少の流れの中でどうなっていくのだろう?」という疑問も湧いてくる。しっかりと見つめて行動せずにただ惰性で過ごしていたら、近い将来気づくと自分たちの暮らしの足元がスカスカの空洞になっていたなんてことがありそうな恐怖と、未来の人たちへの私たち世代の責務も同時に感じる。

で、ヒントが得たくて手に取ったのが、この本だ。
焦点を当てているのが日本最大規模の多摩ニュータウンで、私の住んでいる所沢ニュータウンとは規模もタイプも異なるが、開発の過程から現在に至るまでの大きな時代の流れを俯瞰して捉えることができてとても良かった。

とりわけ好ましかったのは、開発者や地域の実力者たちの大きな声だけでなく、歴史の中で顧みられずに忘れ去れがちな弱者、例えば新しい街を作るための法律によって土地を手放して農家から八百屋に転職せざるをえなかった人や、新しい団地に住んでみたら公共交通も病院もない不便さの中で自ら団結して活動した市民などの小さな声もすくい取ろうとする姿勢だ。
酒鬼薔薇殺人事件、人間関係の希薄さ、家族崩壊などの現象をベースに「ニュータウンの病理」と紋切り型にラベリングするニュータウン論が一時期は風靡していたようだが、著者は丁寧に資料をひもといたり聞き取り調査を行ったりしながら、歴史学・社会学・民俗学などの学問分野を視野に入れつつ多層的にニュータウンを読み解こうと試みる。論文調の本なので決して読みやすくはないけれど、地域に暮らす多様な人々の声を取りこぼすまいとする意志が行間から感じられて、最後まで興味をもって読ませていただいた。

著者は1970年生まれで、多摩市の複合文化施設の博物館に学芸員として就職したことがきっかけで、ニュータウンの歴史にアプローチすることになったという。自分が住む街に愛着と誇りを持ってよりよい街にしていこうとする人たちと出会い、ニュータウンへの偏見が次々と覆されていったと「あとがき」にある。そして自らも家族ととも転居し、自身も多摩ニュータウンに暮らしているそうだ。

高度経済成長期につくられた「ニュータウン」だが、すでに半世紀以上の歴史の層を形成している。これから急激な人口減少の時代には消滅していく街が多くなっていくと予想されるが、著者が試みているように、地域の歴史の「古層」と「新層」を編み継ぎながら次世代にどうやって手渡していくかを考えていくことが大切だと思った。