自己評価が低くなりがちな心に抗う

気になること

気づくと、なんとなくウツウツとしてしまうことが多い。
自分がやりたいことも、すべきことも、ちゃんとできていない気がして、「わたしってダメなんじゃない?」と思えてきてしまうのだ。
あと数年で60歳になるというのに何も成しえていなくて、無駄ばかり重ねてきたような気がしてきて、豆腐の角でも机の縁でもなんでもいいから頭を打ちつけて馬鹿馬鹿馬鹿〜!と泣きたくなってしまう。
で、気づく。自己評価が地に落ちてね? わたしったら。なんでだろ?

そんなとき、わたしはノートを開く。
ノートには、毎月できるだけ新月の日に、それまでの1ヶ月の振り返りを書きとめている。
仕事、介護、ボランティア、お楽しみ、その他諸々やったことを羅列する。書いているときも読み返すときも、「アレもコレもできたじゃん。やりきれなかったこともたくさんあるけど、いろんな交流や学び合いもあったよね。未来に向けての種もたくさん撒けてるよ」と思えてくる。
で、「よくできました」の赤い桜マークのハンコをいっぱい心に押す(つもり)。

褒め言葉のシャワーを自分で自分に浴びせるだけで、地に落ちていた自己評価がムクッと起き上がる。そうすると、「自分だけでやろうとしないでおこう」とか「この日とこの日はぜったいに休もう」と考える余裕もできる。もちろん、それもノートに書いておく。

それにしても、こんなふうにウツウツすることが多くなったのは、やはり介護に負うところが大きいよなぁと思う。2021年夏に認知症の父との同居を始め、昨年2022年のゴールデンウィーク明けに母も札幌から近所の老人施設に連れてきて、それからの介護生活はこのブログにもしばしば書いてきたけれど、俄然、自分の時間と労力が削り取られるようになった。
ともかく介護関連の雑用が多いし、父との同居ゆえの家事・世話の手間も多い。

……と書いていて、思い出した。
そういえば、雑用が多いとぼやいていたら、年上の知人にいいことを教えてもらったんじゃなかったか? なんだっけ? なんだっけ?
そうよ、たしかブログにも綴ったはず……と記憶を辿ると、そうだそうだ、去年の3月、雪の残る札幌での10日間。父母の雑務をこなしながら考えたことに書いていたじゃないの。

「雑務と思うな。本務と思え」

しかも、こんなふうに自分でも納得していた(つもり)。

雑用とか雑務と思うと、「あ〜、めんどくせ」という荒い感情がどうしても湧いてきてしまう。「ほんとなら、今はアレがしたかった、コレもできた、あそこに行けたのに、なんで私、ここでこんなことばっかりやらなくちゃいけないんだろ」、そんなやさぐれ感が強くなりがちだ。
だけど、雑用とて、やらねばならないから手間をかけているのである。
ならば、本務として向き合えばいい。


やれやれ、自分。
悟ったつもりだったのに、忘れていたわ。
というわけで、毎日降ってくる雑用は、私の本務と心得直そう。

うん、そう考えられた自分、えらい、よくできました、ポン♪(← ハンコを押す音)