介護タクシーと飛行機を乗り継いで約7時間。ほぼ寝たきりの母を、札幌から所沢に連れてきました

日々の楽しみ

高齢者が寝たきりになってしまう原因の筆頭にあげられるのは、みなさんもご存知と思いますが、大腿骨の骨折。

私の母は、まさにその大腿骨を骨折してしまった。昨年2021年8月12日のことだ。

持病のリウマチと、10年前の脳梗塞の後遺症で半身不随になっていたのに加えて、一昨年2020年の夏に熱中症で入院してからさらに動きが不自由になってしまい、私たち姉妹は介護付きの施設への入所を勧めたのだけれど、がんとして拒否する父の傍らで、母は「できる限りパパと一緒に家で暮らしたい」という意志を示した。
あぶなっかしいな〜と危惧しながらも、ケアマネさんと相談して必要と思われるあらゆる場所に手すりを付け、ヘルパーさんやデイケアを最大限に利用する環境を整えて自宅での生活をリスタートしたのが2020年11月のことだったから、結局、それからの二人暮らしは9ヶ月半で終止符が打たれてしまったことになる。傍目には短かった気はするが、二人はどう感じているのだろうか。
まぁ、後悔しても時間は巻き戻せないのだし、父母が望んだ選択であり、3人娘もそれぞれにできる限りサポートしたし、介護サービスも万全の態勢での結果なのだから後悔はすまい。

母は、早朝にトイレに起きたときに転倒して骨折したようだが、母も父も気が動転してしまったようで、そのときの状況をまったく覚えていない。
骨折したのは、左膝の上。15年前にリウマチが原因で歩けなくなり、手術で人工関節を入れて再び歩行できるまで奇跡的に回復して父と一緒に念願のヨーロッパ旅行も実現できたのだったが、まさにその人工関節のすぐ上の骨折だった。
救急車で運ばれた病院で、芯をボルトで留める手術前に医師からレントゲン写真を見せてもらったのだが、「まあ、よりによってなんでソコ?」と突っ込みたくなる部分がポキッと折れて切断部があらぬ方向に向いていた。転倒したときの激痛も、それからずっと続いたであろう並々ならぬ痛みも、その画像が教えてくれた。

手術はひとまず成功し、9月末に母はリハビリ病院に転院した。しかし8ヶ月のリハビリを経ても自分で起き上がれるようにはなれず、平行棒につかまって数メートルを歩くのが精一杯。介護保険でいうなら要介護4のほぼ寝たきり状態になってしまった。

転院後1ヶ月半ほど経った11月初旬、「リハビリの状況を見ると、24時間体制の介護施設への入居を勧める」と主治医からすでに見解を示された。父は「ちゃんと治してくれる医者はいないのか」と不満気に言いつづけたが、母の状態はもう父の考えるようなステージにはないと私たちは判断した。
父は、母の入院をきっかけに姉と私が住んでいる所沢に連れてきて一緒に暮らしていて、こうなったらいっそ母も札幌の病院から近所の施設に移動させられれば、新型コロナ感染症が収まって面会や外出ができるようになったら父も一緒に過ごす時間がしばしば作れるだろう。もし札幌の施設に入れてしまったら、その頻度は圧倒的に少なくなる。この期に及んでも、父は施設入所を拒絶しているから、夫婦揃って札幌に留まる選択肢はないのだし。
というわけで、その時点で、私と姉で近隣の高齢者施設を探しはじめた。

徒歩・自転車圏内の老人保健施設、介護付き老人ホーム、特別養護老人ホームをいくつも訪問したのだが、いかんせんコロナ禍では内見ができず、担当者さんの説明を聞くだけなのがもどかしかった。結局、私たちの行き来のしやすさを優先し、まずは一番近い徒歩圏内の老人保健施設でリハビリしながら、その後の対応を決めていくことにした。
当の本人の意向は「あなたたちにお願いするわ。よろしくね」の全面委任の丸投げだったことは、このブログの高齢の父母のこれからの身の振り方についてに書いたとおりだ。

母が入院していた病院からは、「通常は3ヶ月が限度で、12月末の退院が目処になる」と言われたのだけれど、真冬には大雪で飛行機が欠航になる可能性もあるため退院を引き延ばしてもらい、春先の3月末なら欠航のリスクも減るだろうという予測の元で移動計画を立てはじめたのだが、いざ具体的な段取りに進もうとしていた矢先の2月初旬、母が腎盂腎炎で高熱を出してしまった。折しも病棟でコロナ感染者が出て母の病室もレッドゾーンの厳戒態勢になってしまい、リハビリも中断。札幌から所沢への旅を目標にして、2〜3時間は座位を保てるようになっていた母だったが、尿カテーテルをつけての寝たきり状態に戻ってしまった。
そんなわけで計画は立て直しを余儀なくされ、しかも、この冬の札幌は記録的な大雪で3月になっても暗いトンネルからいつ抜け出せるかわからなくて、Xデーの算段が宙ぶらりんになった私には悶々とさせられる日々が続いた。

でも振り返れば、姉が介護休暇がとれたおかげでゴールデンウィークをはさんだ丸2週間の札幌滞在計画にできて、結果的にとてもよかった。
なにしろ、気候が抜群だった。薄桃色のソメイヨシノや黄色のレンギョウが開きはじめた頃に訪れ、あちこちの歩道や庭や公園のチューリップやムスカリもどんどん咲いてきて、ピンク色の八重桜がぼんぼりのように明るくなって春爛漫。もちろん、3月末にはまだ残っていた雪も、遠い山頂に残るのみ。
余裕をもった長めの滞在にできたから、散歩好きの父に、久しぶりの札幌を思うぞんぶんに味あわせてあげられたし、叔父(父の弟)との再会も果たせたし、かねてから気になっていた銀行等の手続きも少し進めることができた。

入所予定の老健に5月初旬に空きが出ることを知ったのは、3月後半のことだった。以後、老健と病院の相談員さんに調整していただきながら、具体的なプランを立て、相談・確認・予約手配へと私は邁進した。
移動手段に関しては、病院から千歳空港まで介護タクシー → 飛行機 → 羽田空港から所沢の老健まで介護タクシーと乗り継ぐことになる。介護タクシーの移動はそれぞれ1時間半程度、フライトも1時間半程度だが、空港での手続きにも時間がかかるので、7時間を超える長旅になる。病院の看護師さんと理学療法士さんに相談したところ、母の状態では、座位は飛行機のみ、介護タクシーではストレッチャーで横になって移動させるのが賢明とのことで、そのアドバイスに従って手配した。
飛行機は、インターネットで予約を済ませてから、航空会社の「お手伝いの必要なお客様」の窓口に電話をかけてサポートを依頼。車椅子から座席への移動介助を考慮して、座席前のスペースの広い席への変更もお願いし、空港で利用する車椅子はリクライニング式のものを手配してもらった。

問題は、飛行機内での車椅子と座席の移動時の介助だった。介護タクシーでは資格を持ったプロがサポートしてくれるけれど、機内では自分たちでやらねばならない。
新型コロナ感染予防の観点から病院での実地指導はできないと言われたのだが、ありがたいことに、理学療法士さんが動画を撮って送ってくださることになった。送られてきた動画を見ると、航空会社に問い合わせて確認した座席の高さや座席と正面の壁の距離などの寸法通りに椅子や机(壁の代わり)を配置しての介助方法が、具体的な説明とともに示されていた。おかげで私たちは動画を繰り返し見ながらイメージトレーニングをして、本番に備えることができたのだった。なんともなんとも、ありがたかった。
しかも、担当の看護師さんは、移動中のオムツ替えの段取りも考案してくださった。母は1分程度はつかまり立ちできるから、紙オムツ2枚重ねにパッドを入れておけば、羽田空港の多目的トイレで姉と私の二人で介助しながらパッドを抜くだけで問題なく過ごせるだろう、と。

こうして、いろいろな方々の協力をあおぎながら準備を進めてきたのだったが、トータル9ヶ月の入院中、病院はコロナ感染予防のために面会禁止で、唯一、救急車で運ばれて入院した病院からリハビリ病院に転院するときに妹が付き添った以外、私たちは母に一度も会っていなかった。
月2回ほどのインターネットのビデオ通話で面会はしていたし、介助方法のシミュレーション動画も見ていたとはいえ、当日まで母の状態を肌身で確認することができなくて、準備にあったってはすべての配慮に想像力が要された。

そうしてドキドキハラハラ迎えた5月11日。
病院に迎えにいって目の当たりにした母は、とっても小さかった。近年、どんどん体が縮んできていた母だったが、さらにちっちゃくなっていた。

父、姉、私(+チワワのマリア)、それに忙しいなか助っ人に加わってくれた妹も揃い、母を囲んで5人家族の大移動である。ああ、こうして家族揃って旅行するなんて、何十年ぶりなんだろ?

時間通りに介護タクシーが迎えにきてくれて、病院では担当の看護師さんや理学療法士さんがみんなで見送ってくださって、空港でのストレッチャー移動も問題なくできて、「お手伝いが必要なお客様の窓口」で思いのほか手間取ったけれどマリアも父の車椅子も預けて手続きを完了し、母の車椅子への乗り換えもできて、搭乗口の待合室で母が私の手作り弁当をおいしいおいしいと食べてくれて、機内の座席移動も上手にできて、姉と妹が空港内で手際よく入手した美味しいペストリーを母は喜んで食べ、機内サービスの久しぶりのコーヒーに舌鼓を打ち、羽田空港ではパッドの抜き取りも、マリアと荷物の引き取りもつつがなく済ませることができ、介護タクシーがちゃんと迎えにきてくれていて、ストレッチャー移動も問題なくできて、目的地の老健まで渋滞なく予定時間にたどり着けて、スタッフの方々が笑顔で迎えてくれた。
フライトの中盤から体のあちこちが痛くなって辛そうだった母だけれど、約7時間の移動に最後まで耐えてくれた。

そのひとつひとつの段階をクリアするたびに、私は感涙を抑えるのに苦労した。まさかいちいち涙が出そうになるなんて我ながらびっくりだったが、思えば、ひとつでも欠けてしまったら母の移動は遂行できなくなる。無意識のうちに極度に緊張していたのだろう。
ひとつひとつ、事が予定通りに進む。託された仕事を時間通りに、期待通りに、プロの方々がこなしてくださる。それがどんなにありがたいことか。いま振り返っても、感謝の念がどくどくと湧いてくる。

そうして母を老健に送り届けて帰宅し、自室に荷物を置いて「あー、よかったよかった!」と心軽くリビングに戻ってきた私を、思わぬものが待ち受けていた。

部屋のまんなかで父が仁王立で、私を睨みつけて言ったのだった。
「おまえは悪い奴だ。俺の金を勝手につかいやがって」

えーっ!? またそんな?
しかも、こんなタイミングで?
さっきまで、介護タクシーのなかで和やかに姉とおしゃべりしていたのに?
やれやれ。

以前の私なら、そこで腹を立てたり泣きが入ったりしていただろう。
でも、認知症の父の言動にはこの9ヶ月で慣れてきたし、いろいろ本を読んだり経験者から話を聞いたりして、一番のキーパーソンとして動いている人ほど悪態の標的になることを私は知っている。

「おまえは悪い奴だ」=「おまえは大仕事をよくやりとげた」と脳内で翻訳し、「また悪者にされちゃったよぉ」と姉に告げ口してウサを晴らして事足りた。
うん、すごい、成長してるよ、自分。

というわけで、また新たなステージが始まりました。
9ヶ月の入院生活を経て、以前はまだ頭はしっかりしていたはずの母が急ピッチで父に追いついちゃうかも?という疑念を、大移動を通してヒシと感じたもんで、いろいろ対策すべきこと多き現実が目の前に広がっている。

さて、どうなることやら。
でもまぁ、ひとまず母を近くに連れてこれてホッとしてますぅ〜。