91歳の父、芸能界に進出か!?

日々の楽しみ

7月27日(水)の夕方のこと。
デイサービスから戻った91歳の父が、なにやら嬉しそうな表情をしていた。私と姉と一緒に暮らし、近所のデイサービスに通うようになってもうすぐ一年になるが、いつも帰宅時には「あー、待った待った。なかなか帰れなくてイライラさせられた」と不満を口にすることが多いので、こんな明るい表情は珍しい。

聞けば、「8月3日の納涼祭で、石原裕次郎の『恋の町札幌』を歌ってくれないかと女の子に頼まれた」と言う。歌詞の拡大コピーも、大事そうに袋から取り出してみせてくれた。

へぇ〜、いいねぇ、楽しそう。

さっそくスマホでYouTubeのカラオケを流してあげたいところだったけれど、その日はまだ仕事が終わっておらず父は放っておいて1時間ほど自室にこもり、その後は、夕飯のメニューを天ぷらに決めていたので台所で大葉、ピーマン、ゴーヤ、人参、カボチャ、穴子なんかの下準備をして、衣を混ぜて、父と姉に熱々を食べてもらうべく食堂のテーブルを整え、いざ、油を熱して野菜から衣をつけて順々に揚げはじめた。

大葉、ピーマンまでサーブしたところだったか、おもむろに姉がタブレットでYouTubeを起動させた。流れてきたのは、もちろん『恋の町札幌』だ。

あらあら、ちょっと待ってよ、食後にしてよ、せっかく天ぷらなのに。

と言っても、時すでに遅し。
箸を持つ手を宙に浮かせたまま心ここにあらずの父は、裕次郎の声にワンテンポ遅れをとりながら歌うことに夢中になってしまった。やれやれ。

ほら、人参、ほら、カボチャ、と次々と揚げたてを運んでいっても、「おいしい!」というのは姉ばかり。父は、ちっとも味わってなんかいない。一曲終わると「拍手!」と声を張り上げて要求したりしちゃって、まったく、もぉ!

二人への配膳を終え、私が遅れて一人サクサクもぐもぐ食べているあいだも、父は何度も歌いつづけ、そうなっては私も食べる合間に「ブラボー!」「いいぞいいぞ、ヒューヒュー!」などと適当に囃し立てていたら、父は「アンコールには何を歌おうか?」などとますます意気揚々。そして、「俺に頼んだのは、声がいいからか? 歌がうまいからか?」なんて、ちゃんちゃら可笑しいことを聞いてくるもんで、姉と私は笑い出した。

いや、だってデイサービスの納涼祭でしょ。ほかにも歌う人、いるんじゃね? それに、ほら、前にもお楽しみ会で『恋の町札幌』だったか『錆びたナイフ』を歌ったって言ってたじゃない? スタッフさんがパパの好きな曲を覚えててくれたんじゃない?

しかし尋ねても、父は首をひねるばかりで「俺は知らん。女の子は俺に相談もせずにどうして『恋の町札幌』を歌えと言ったんだ?」と、むしろあらぬ方向に疑念が膨らんでしまったようで、そのうち「やっぱりそんなことできない、人前で歌うなんて無理だ」などと言い出す始末。
で、ちょっとテンション下がり気味なまま、天ぷらの宴はお開きとなった。

その夜、就寝前の歯磨きを洗面所で手伝っていたら、父が何か小声でつぶやいたので、「何?」と聞き返したところ、なんとまあ、「芸能界に進出するか」と言うのだった。

えっ?
言葉の意味はわかるのだが、父が言わんとしていることがスルリと落ちてしまった。
で、「本気なの?冗談なの?」と聞いてみると、答えはなんとまぁ、「半々だな」であった。

思わず、プッと吹き出す。いやぁ、全面的な冗談じゃなく、半々とはねぇ、よく言うわ。
見ると、父は真面目な表情を崩さず、思案気な様子なのであった。いやはや。

あとで、「パパ、すっかりその気になってるね」と姉とクスクス笑った。姉と私の合意するところとしては、ともかく納涼祭まで全力をあげて盛り上げるべし。さすれば認知症の父が、「お前らが勝手に俺の金を使ってる」だの「お前らを警察に訴える」だのと管を巻いてくる心配はないだろう。とにもかくにも、優先すべきは父のお楽しみだ。それが、いまや我が家の平和の鉄則だ。

認知症の父は、少しでも暇があると不安になる。そして不安になると、なぜか疑惑の矛先が私たちに向けられる。とはいえ、私たちには仕事も家事もあるから、お楽しみ企画を常時提供して寄り添って暇をつぶしてあげられるわけではない。だけど、歌の練習は扱いがいい。YouTubeで曲を流しておけば、その約4分間は、ごきげんさんで一人で歌っていてくれる。自分で再生できないのが玉に瑕ではあるけれど、横で「出だしが合ってきた!」「息継ぎがうまくなってきた!」「リズムがよくなってきた!」などと思いつくままベタ褒めして4分ごとに再生ボタンを押しさえすれば、エンドレスに時が埋められていく。

翌日も、夕食後のひとときに姉と私を聴衆に、父は何度も楽しそうに歌った。
「快調じゃない、快調、快調!」と声をかける姉に、「俺は相談役だ」などとウィットを利かせてみせたりもして、ほんと、ごきげんさん。よかったよかった、どうぞその調子で本番を迎えてください、と思っていたその晩のことであった。

夜の10時頃、寝る準備をしていたら、隣室の姉が誰かと話して笑っているのが聞こえてきた。姉が夜遅くに電話するなんて、めったにないことだ。
しばらくして、笑いこけながら姉が私の部屋の扉をノックして入ってきて、スマホを私に差し出して「お願い、かわって、笑いが止まらない」と言う。

想像に違わず、それは自室にいる父からの電話であった。
聞くと、「向こうの女の子が頼んできたから、いったんは引き受けたが、将来の取引関係が悪くなると困る。そういうことは、上の人が判断しないと、担当者が傷つくと組織がもたなくなる。みんなを辛い立場にして、わしゃ知らん、俺は歌わないとは言えないだろう。上に立つ者としては、慎重に慎重にやらないといけない。それは部下のためでもあるし、顧客のためでもあるんだから、慎重に考えないといけない。社長が歌って恥をかくようなことがあってはならない。まあ結論から言えば、なんともないとは思うが、みんなが無責任になっちゃいけないと思って電話したんだ」とかなんとか意味不明。

そう、認知症の父は、ときどきこういうビジネスモードの妄想にとりつかれるのである。
ショートステイで老人保健施設に泊まっているときに、「仕事が終わったら帰るから」と電話してきたことも一度だけではない。
そういうときは、「変なこと言わないで」とか「何言ってるの」などと反応すると混乱が膨らむばかりなので、うまく話を合わせるのが肝要だ。横でまだ姉は笑いつづけていたけれど、笑いに感染しないように心を鎮めながら私は、「そうね、パパがそう考えるのも一理だわね」とか「なるほど、そんな風に心配してるのね」と合いの手を入れながらしばらく相手をしてから、「あら、パパ、もう10時過ぎてるわ。パパの携帯は夜9時以降はお金がかかるから、その話はまた明日にしたらどうかしら」と提案してみたところ、「そうか、じゃあ、明日また相談するから、よろしく」と父は落ち着いた様子で電話を切った。
そのあとしばらく、姉と二人でお腹をよじって笑ったのだったが、無論、翌日にその相談が蒸し返されることはなかった。

『認知症の人がスッと落ち着く言葉かけ』(右馬埜節子著/講談社2016年3月発行)を読んで、「異なる世界に歩み寄ることができる私たちが、認知症の「忘れる」という特性を上手に活かしてその場の空気を変えること。場合によっては笑顔を生み出して明るくすること。それが最も大切なことです」と学んだことは、「引き算の世界」の人と穏やかに付き合う方法とは?に昨年11月に書いたが、まさにそれを自然体でやっと実践できるようになったなぁと感慨深く思う。読んだ当時は「頭ではわかっても、実際には難しいな」と感じていたのだが、成長したなぁ、自分。

さて、その翌日も、そのまた翌日も、私のiPhoneからも姉のタブレットからも『恋の町札幌』が幾度となく再生され、父はそれと一緒に歌った。ごきげんさんだった。あらぬ疑惑で私たちに絡んでくることはもちろんなかった。
ただもう一度、本番2日前の夜の10時過ぎに電話がかかってきて、今度は「歌なんか歌ってすっかりはしゃいじゃって、仙台に支社をつくるなどと軽率に言ってしまった。だけど、免許もないのに証券会社のようなことはできないし、お前らにも相談していないし、困ったものだと思って電話した」と言う。
私「あら、仙台に支社をつくるなんて誰に話したの?」
父「いや、まだ話したわけじゃない」
私「じゃあ、大丈夫じゃない?」
父「まあ、そうだな」
私「で、仙台なんて縁もゆかりもなさそうだけど?」
父「いや、さよなら札幌だから」
……なんて、またしても支離滅裂なやりとりを経て、再び夜9時以降は携帯電話料金が高くなるという理由をオチにして通話を終わらせたのだったが、それ以外は本番の日までほとんど混乱をきたすことはなかった。

前日、いつもは衣類に頓着しない父にしては珍しく「何を着ていこうか?」と気にしていたので、そうだ、そうだ、タンスの肥やしになっていたアロハシャツを父母の札幌の家から送っておいたっけね、と取り出し、白いパンツを合わせて着せてみると、なかなかの祭りムードが醸された。
それならば、と姉が白い靴下も貸してくれて、そういえば夏用の白い靴も送ってあったねと探し出し、すっかりトータルコーディネートが出来上がった。

当日の朝、ブルーにピンクの模様が散りばめられたアロハシャツを着て、姿見の前で「ちょっと派手じゃないか?」と渋ってみせたが、お迎えのスタッフさんが「あら、素敵ですね! 納涼会にぴったり!」とすかさず褒めてくださり、ちょっと緊張した面持ちだったものの、楽しそうに父は出かけていった。

そして夕方、超ごきげんで父は帰宅した。
「なかなかうまく歌えたぞ。みんなから褒められた。それにアロハシャツが好評で、いろんな人から素敵だと言われた」と。
連絡帳を開くと、「納涼祭では『恋の町札幌』を素敵な歌声で堂々と歌い上げていました。シャツも素敵で、本物の歌手みたいでした」なんてコメントをスタッフさんが書いてくださっていた。
デイサービスのみなさんは、ポジティブな褒め言葉のシャワーを浴びせるのがお上手で、父がどれだけ救われていることか、といつも思う。ありがたいことである。

その夜、父はニコニコと明るい表情で、「楽しい90代のスタートだ」と姉に告げたそうだ。デイサービスに通うようになって、ほんとに良かったとしみじみと感じられた納涼祭であった。
数日後、父はふと「デイサービスというのは、老人の慰労のための場所なんだな」と、なんだか腑に落ちた様子でつぶやいていた。ハレの日を超えて、一年近く通ってきた施設に自分なりに意味を見出したようだ。

さて、あの日以来、芸能界への進出について父が話題にすることはない。
私がマネージャー業に励み、出演料の札束を数える未来は、永遠に失われてしまったようだ。まったくもって残念だ。笑