親の介護とか人生とか排泄とか

気になること

ヒトは、生きるために食べ、そして排泄する。
どんな人生を送っていようと、そうせずには生きられない。
その当前といえば当前すぎることを、最近よく考える。
人生と排泄の関係は深い、深すぎる。問題が深過ぎて、もはや私の頭の中に広がる泥沼のよう。ズブズブです。

というのも、そう、親の介護なのです。
ほぼ寝たきりの母を4月から週末に自宅に迎えるようになって丸3ヶ月。週末だけとはいえオムツ替えが日常茶飯となってやっと、人生と排泄という深い問題に気づかされたのである。

そして、あらためて感慨深く思うのは、「排泄という生理現象が快感をともなう」という事実。「したいな」と感じてトイレに行って「する」。とりわけ切迫した状況でトイレに駆け込んで「ああ間に合った!」と安堵するときの快感は大きいものがある。気持ちいい、スッキリする、ですよね? 多分、それは今読んでくださっているあなたにも大なり小なり覚えがあるだろう。
とはいえ、その快感に毎回感じ入りながら排泄している人がいるかといえば、いないだろう。少なくとも私は、ときに「ああ、スッキリ!」という気分を味わうことはもちろんあるけれど、毎度毎度「あぁ、気持ちいい!」と快感に浸ることなどせずに、これまでの人生を過ごしてきた。私にとって排泄は、必要不可欠な生理現象であり、健康のバロメーターとして重視してもきたけれど、あくまで基本的な体の機能であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。

ところが、親の介護とかオムツとか尊厳とかに書いたように、母には現在、排泄感覚がない。だから大も小も「したい」とか「出た」とか教えてくれることはなく、私はオムツを開けてはじめて出た出ていないの状況を知ることになる。つまり、彼女には「したい」も「する」も「した」の感覚もなく、自分の身体に起きている現象であるにもかかわらず、まるで別世界で起きている他人事のようなのだ。
先週末、オムツを開けたちょうどそのとき、ニョキッと現れんとしてる大さんに遭遇した。あまりのタイミングのよさに、「あれ、今、いきんでる?」と私は尋ねた。オムツの
囲いから解放されて、久しぶりに空間に放出したくなったのか?と瞬時に思ったがゆえの問いだった。しかし母は「全然わからないの、嫌だわ、ほんとに嫌だわ」と不快そうに言った。母を嫌な気持ちにさせてしまったようで居心地の悪くなった私は、「あー、きっと私に会いたくて出てきたんだよ」なんて軽口を叩いたのだが、そのときあらためて思ったのだった。「トイレでスッキリ」の快感を、母はもう味わえないんだなぁ、と。
そしてそのかけがえのなさに気づくと同時に、それを失ってしまった母が不憫になった。

母の場合、オムツが必需品になったのは、徐々に段階を経てのことである。最初のステップは、12年前の脳梗塞。右半身に麻痺が残って体を自由に動かせなくなった。その体の不自由さが年ととも広がっていたところに、3年前の夏の熱中症という2つ目のステップが訪れる。1ヶ月の入院後に老人保健施設(以下、老健)でショートステイを利用して自宅復帰を目指し、なんとか父と2人での生活に戻ったものの、廊下に取り付けた手すりなしでは移動が難しくなった。失禁が増えて尿取りパッドを使うようになったのもその頃だ。全身の筋力とともに骨盤底筋がすっかり弱ってしまったのだろう。そして自宅復帰9ヶ月目にして転倒。大腿骨を折って手術入院→リハビリ病院→老健という経緯の中で「ときにオムツ⇄トイレ復帰」を何度か繰り返し、たしか一年前頃に老健でトイレ中に前面に転倒するという事故が起き、その後、100%オムツ生活になってしまった。
時間を巻き戻せるとしたら、どの時点に戻って、どう対処していたらよかったのだろうか?とときどき考え込んでしまうが、むろん、今となってはどうにもならないし、もし母のトイレ復帰のために何かできる術があったとしても、私はそれにどれだけの時間と労力をつぎ込めるだろうかと想像すると、何か暗い深淵をのぞき込むような気がして目を逸らしてしまう。

この週末は、父母が以前住んでいた札幌の家に、92歳で認知症の父を連れて姉が夏休みを過ごしに行ってくれたので、父と姉が不在の所沢の自宅に母を迎えて2人で過ごした。
父がいると「お前もがんばって歩けるようになれば、また一緒に暮らせる」と言って母をビミョーな気持ちにさせたり、デイサービスの活動の習字や絵画の自慢ばかりしてうるさいのだが、そんな父の相手をする必要がないし、いつもなら家族4人になる週末が2人だけなので料理や片付けの手間も少なくて済む。だから一人でも母のお世話は難なくできるのではないかと予想していた。実際、そのとおりで淡々と週末は過ぎたのだけれど、雑音がないだけ、まるで母の生理現象を中心に時が流れていくように感じられて、これまで以上に人生と排泄について考え込むことになった。

というのも、土曜の朝11時頃に母が到着してオムツを替えてみると、この暑さのせいかオムツかぶれがひどくなり、右内腿には水疱が破れた跡に血が滲んでいる箇所が2つ。臀部にも血が滲んでいるところがあり、母に聞くと「痛くない」と言うのだけれど、見るだけで痛々しく、しかも軟便気味の便が傷に付着しがちなのが気になって1時間ごとにオムツ交換をして清潔を保とうと考えたのだった。それで、これまで以上に頻度高く排泄について考える機会を得たというわけである。

4月以降、母は家で週末を過ごすのをとても楽しみにしていて、とりわけ食事やデザートに期待を膨らませている。いつも「とってもおいしいわ」と満足そうにあれもこれも嬉しそうに食べる。だから私は母の好きそうなものを普段よりも1~2品多めにテーブルに並べるし、姉はあの店この店のパンやお菓子を母のために買ってきて特別感を盛り上げる。妹も、父母を喜ばせ私たちを労うために、冷凍クロワッサンとかうなぎとか北海道のお菓子など選りすぐって送ってくれる。
母が舌鼓を打ち、何度もおかわりして食べるのを見るのが、私たちにはすごく嬉しい。普段から何を食べさせても「まぁまぁだ」とテーブルで仏頂面をしている92歳の父とは対照的で、ほんと、食べさせがいのある母なのだ。少しずつ嚥下しづらくなりつつある状態を見るにつけ、まだ大丈夫なうちにできるだけ食べさせてあげたいとも思う。だから、週末は母のためのご馳走づくしだ。

ただこの週末は、私よりも過剰に準備しがちな姉が不在だったので、夕食のテーブルはすこし地味めで、ぬか漬け、鯵の刺身丼、小芋の甘辛煮、モロヘイヤのおひたしに、手づくりプリンというメニューだった。朝食はサラダ、キャロットラペ、ポテトサラダ、オムレツなど。2人だけの食事は静かだったけれど、母はよく食べた。私よりたくさん食べた。

母は、不自由な左手で匙を持ち、ときどき上手くいかなくてエプロンにポロポロとこぼしながらも食べ物を口に運び、モグモグごっくんを繰り返す。そしてときどき「おいしいわ、ほんと、おいしい!」と目をクリクリさせて私を見る。家にあるカップのなかで唯一母が持ち上げられるカップに半量入れた味噌汁やお茶をゴクゴクと喉を鳴らして飲み、「あぁ、おいしい!」と満足気にため息をつく。

そんな母を見ながら、私は単純に嬉しくなる。よかった、口に合って。おいしいって感じられてよかった、ほんとうによかった。
そして私の頭の中にふと浮かんできたのが、おもちゃの哺乳瓶に水を入れて飲ませると下から水が出てくるお人形なのであった。私は持っていなかったけれど、誰だったか友だちの家に遊びに行くと、貸してもらえた。
いま、私が母に差し出した飲み物や食べ物は、やがて排泄される。

排泄感覚をなくし、排泄の快感も味わえなくなってしまった母だけれど、まだ、食べて味わう快感は健在だ。排泄の身体機能もなんとか保たれている。
思えば、私たちは年を取りながらいろいろな快感の機会を失っていく。全力で走る、縄を何度も跳ぶ、遠くまでボールを投げる、そんな身体的な運動で得られる快感を、私はもういつから味わっていないだろうか。若かった頃は、好きだった、気持ちよかった、動くのが。でも、今はできない。だけど、だからといって、すごく不幸になったり、後悔が湧いてきたりはしない。今は今、それなりに味わえる快感があり、それはそれで幸わせだ。

排泄は、人生において重要だ。とても重要だ。
だけど自分でできなくなって快感も得られなくなったからといって、不幸になったり後悔してばかりいたらつまらない。
せめて、週末はおいしいものを食べさせてあげる。それでいい。あえて深淵をのぞき込むことはせず、そう思うことにします。