フランス大統領の辞任を求めるweb署名をみて、私がはじめて経験したアンカレッジでの署名活動を思い出した!

気になること

数日前、フランスの友人がFacebookで、エマニュエル・マクロン大統領の辞任を求める署名活動をシェアしていた。

新型コロナウイルスの感染拡大防止のために大統領は厳格な外出禁止令を発動し、信頼が高まっていると報道されていたはずなのに、あらあら、どうしたのかしら。
で、あらためて最近のニュースを手繰ってみたら、なるほど、辞任を求める署名活動が起こるのも、まあ、うなずけるなという状況なのがわかった。

時事ドットコムの「マクロン仏大統領に不信感根強く コロナ対策、支持に陰り」の記事にあるように、国民に不信感が高まった直接的な原因は、国によるマスクの在庫管理の問題だったようである。
さらに5月19日に放映されたマクロン大統領のテレビインタビューが、不信の火に油をたっぷりと注いだようでもある。実際に、インタビュー動画を見てみると、日本の政治家の「ご飯論法」とは異なるものの、巧妙に言葉をズラしながら饒舌に語っていて、なんとかうまく言い逃れしようとしている感が伝わってくる。

そして、
Jamais nous n’avons été en rupture de masques.
決して、マスクが途絶えたことなどなかった。

…などと自信満々に主張したのである。
実際には、感染の危機に瀕する病院でも介護施設でもマスク不足で大変な状況だったことは周知の事実なわけで、そんなことをリーダーに言われようものなら多くの国民の開いた口はふさがらなくなって当然だ。

おりこうさんのお坊ちゃんが、実際に起こったことが、まるでなかったかのように妙に回りくどい説明をしながら責任をあいまいにしている茶番劇。自分の国のことじゃないけれど、ちょっとちょっと、それはないでしょう、と私も横槍を入れたくなる。

実は、マクロン大統領への多くの国民の不信感は、今に始まったわけではない。就任以来ずっとくすぶり続けていた。
2017年5月の大統領選挙で得票率66%で圧勝し、仏史上、最年少の39歳で颯爽と就任したのに、なぜ?ではあるが、それにはわけがある。
彼が選挙で圧勝できたのは、対抗馬が極右国民戦線(FN)のマリーヌ・ルペン候補だったのだ。つまり、本当はマクロンを支持していなくても、極右のルペンには絶対に勝たせまいとマクロンに投票した人がとても多かったのである。
そして就任以来、「金持ち優遇」と批判され続けてきた。

友人がシェアしていた「エマニュエル・マクロン大統領の辞任」を求める署名活動の説明によると、本当にマクロンを支持している人は有権者の16%でしかない。
もともと不支持だった人たちにとっては、「われわれは戦時下にある」と演説して強硬姿勢をとったわりには感染が拡大して死者が増えた現状にも、国がマスク在庫を隠していたのではないかと疑わせるような不透明性にも、堪忍袋の緒が切れて「NO!」を突きつけたくなる状況なのだろう。

署名活動で思い出した、友人との出会い

で、今回の本題。
web署名をシェアしていたフランスの友人マルティーヌとの出会いが、署名活動だったことを思い出したのだ。

かれこれ30年以上も遡る。
私は大学を卒業後、就職が決まっていた会社と交渉して猶予を得て、半年ほどパリに滞在した。その帰路でのことだった。

パリを飛び立った大韓航空の飛行機は、アンカレッジとソウルを経由して、東京に向かう予定だった。
ところが数時間のトランジットのあとでアンカレッジ空港を離陸後ほどなく、機体が大きく揺れ、しばらく旋回したのちに、アンカレッジ空港に戻るというアナウンスが入った。
何やら、機体に問題が生じたらしかった。怖かった。
もしかしたら、墜落事故になるんじゃないかと冷や汗が流れた。

でも幸いそんな大事故にはならずに、飛行機は無事アンカレッジ空港に着陸できた。
後部左翼あたりのエンジンが小さな爆発を起こしたとかなんとか、と説明されたようなおぼろげな記憶があるが、正確なことは覚えていない。

いずれにしても、その飛行機はすぐに点検して再出発できるような状態ではなく、代わりの飛行機が手配できるまで、乗客はみんなアンカレッジで待たされることになった。
ホテルに連れていかれ、部屋が割り振られ、そこで待つことになった。
結局、足止めをくらったのは2泊だったか3泊だったか、覚えていないのだが。

そのアンカレッジ滞在中に、私はマルティーヌに誘われて一緒に署名活動をした。
たぶん、私はこのとき初めて「la pétition(=請願)」という言葉を、マルティーヌの発音とともに覚えた。そしてたぶん、私にとって初めての署名活動だった。
請願の内容は、「できるだけ早く代替機を用意し、速やかに出発すること」といったもので、宛先はもちろん大韓航空。

どのタイミングで誘われたかは覚えていないが、すでにフランス人たちのあいだでは署名が進められていて、「日本人にも署名をもらえるよう通訳して」と私はマルティーヌに頼まれたのだ。おそらく、彼女とはホテルへの道中に話をして顔見知りになっていたのだったと思う。

今記憶をたどってみて思うが、あの署名活動があってもなくても、結局は代替機は用意されて出発できただろうが、あのようなシチュエーションで、すぐに「みんなの意見をまとめて申し立てしよう」と素早く行動するのは、いかにもフランス人だよなぁと感心する。

ひるがえって、日本人たちはどうしていたかというと、食堂のテーブルに座って「何が原因だったか」を延々と語り合っていた。おおかたは年配のおじさんたちだったと記憶しているが、広い食堂のそこここの円卓に6〜7人で集まって額を寄せ合い議論している灰色の風景が、記憶の霧の彼方から蘇ってくる。

彼らのなかには、署名に全く関心を寄せない人も少なからずいた。
署名することを了承した人のなかにはハンコを持ち合わせていないと慌てる人もいて、いやいや、直筆のサインだけでいいんですよ、と通訳した。
年配のご夫婦は、夫が妻のぶんまでサインしようとするものだから、いやいや、署名はご本人が、と通訳した。当時は、あきれるほどに家父長制が色濃く残っていたのだ(今もだけど)。

そんなやりとりを、マルティーヌはいたずらっぽい笑いを含んだ青い瞳をキラキラさせながら見ていた。日本人のおじさんたちの言動は、彼女の目にはさぞや不思議に映っただろう。
そして日本人のおじさんたちにとって、そんな署名活動をするフランス人たちがさぞや不思議な存在だっただろう。
大学を卒業したばかりで社会経験が少なく、日本人のおじさんカルチャーも、フランス人の異議申し立て気質もよく知らなかった私には、どちらも不思議な人々で、その間で、片言のフランス語で橋渡しをするのがすごく面白かったのを思い出す。

マルティーヌは当時、いろいろな国際会議や展示会を企画コーディネートする仕事をしていて、アンカレッジを出発後はソウルで別れたのだったが、ソウルでの仕事を終えて東京に遊びに寄った彼女は、私の新居に泊まった。私は日本に帰国後、就職する会社に通勤しやすい都内に部屋を探して引っ越ししていたのだ。そして会社勤務がスタートする前の数日、私は彼女と一緒に浅草や池上本門寺の散策を楽しむことができた。
翌年には、マルティーヌが医学系の国際展示会でのアルバイトを融通してくれて、シカゴで数日過ごすという貴重な機会をつくってくれた。さらに2年後、私が留学のためにパリに移住してからは、ホームパーティに誘ってくれたりおしゃれなカフェを教えてくれたりするようになった。
思えば、若かった私を多くの未知の世界に誘ってくれた大切な存在だった。

マルティーヌは私よりも10歳以上年上で、20代の私にとってはすごく大人に感じられたし、個人主義で自由を大切にするフランスを象徴するような女性で、私はいつも一所懸命、背伸びをしていたような気もする。
だけど彼女は、いつも私を朗らかな青い瞳で見つめ、疑問があれば言葉にし、私の疑問にはわかりやすく答えてくれた。そして、いつも二人とも面白いことや不思議なことを見つけてはよく笑っていた。とても平らな関係だった。

30年以上を経て、すっかり忘れていたアンカレッジでの署名活動のことをこうして思い出すと、この体験は、今も私の根っこにずっと生きていたように感じる。
編集や広報や無垢の木製品の販売など、表面上は形の異なるいろいろな仕事をしてきたのだが、いつも、何かしらの理解を深めるために橋渡ししたり翻訳したりしてきたようにも思えてきたし、マルティーヌから教えてもらったフランス人的な考え方や行動様式が私のなかに根付いていることにも、あらためて思い至った。

マルティーヌ、ありがとう。
一人ひとりのアクションは小さくても、まとまって異議申し立てをすることが大切だと最初に教えてくれたのはマルティーヌだった。
私も今、せっせと署名活動しているよ。
web上で署名できるようになるなんて、あの頃は想像もしてなかったよね。