親の介護とかオムツとか尊厳とか

気になること

いよいよ両親の介護がかなりレベルアップしてきた感がある。
というのも、4月中旬から週末に母を家に迎えることになり、一昨年夏の大腿骨骨折後、ほぼ寝たきりで「全介助」の状態になってしまった83歳の母の介助項目に、オムツ替えがもれなく含まれるからだ。

食事やおやつが安全に食べられるようサポートする食事介助、ベッドから車椅子への移乗介助、車椅子での移動介助、パジャマや服を着替える更衣介助も、それぞれに母の身体機能レベルに合わせてやるべきことがたくさんあるけれど、中でも排泄介助は何よりハードル高く感じられていた。
たぶん、私だけでなく、親の介護に関わる人の多くにとって同じなのではないかと思うが。

私は姉と一緒に92歳で認知症の父の介護をしながら暮らしていて、一家3人の中で母のオムツ替えを担当するなら私だということは、あらかじめ想定していた。
認知症の父は自分の日常生活全般にサポートを要する半介助状態だし、自分が食事で食べ残したものですら「汚い」と言うような不徳者だから母のオムツ替えなど仮に体が自由に動かせたとしても手を出すとは考えられない。そしてもう一人のメンバーである姉は、5年前に同居するにあたって私が連れてきた愛犬マリアの散歩でマリアの落とし物を拾うのですら及び腰だったし、日頃から腰痛を訴えているし、そもそも手作業は不得意だと公言していてオムツ替えを率先してやるとは思えない。
だから、特別養護老人ホームで4ヶ月過ごしたところで母が「ここで寝ているだけでボケていくのは嫌」と言い出し、ケアマネジャーさんや施設の相談員さんと話し合いながら母の希望を叶えるべく介護サービスの組み合わせを検討し、週末に母を家で過ごさせてあげる算段を重ねるうちに、家でオムツ替えをするのは私だという覚悟はできていた。

とはいえ、昨年2022年10月末、母を自宅に迎えてみて、オムツ替えが容易ではないことは痛いほど実感していたので、YouTubeで検索して動画をあれこれ見て予習したり、初日に母を送ってきてくれた介護士さんから簡単なレクチャーを受けもしたが、現実はなかなかどっこいスムーズに運びはしなかった。(以下、それほどリアルな描写はしませんが、お下の話がお嫌な方は、これにてページをお閉じくだされm( _ _ )m)

というのも自宅泊の初日、母は軟便だったのである。昨年の2泊3日では大変だったといっても排便がなかったから大したことはなかった(と、そのとき気づいた)。昨年5月に札幌の病院からはるばる所沢の老人保健施設に入所してからは、施設の看護師さんと介護士さんが「排便コントロール」にあたってくださっていて(その言葉も方法も説明を受けながら少しずつ知ることになり、施設によってその考え方や方法が異なることも知ってきたのだが)、不覚なことに、自宅に戻る前に「コントロール」してくださってるものだと思い込んでしまっていたものだから、まさにオムツを開けてびっくり。そりゃそうだ、人間だもの、排泄を自由自在にコントロールするなんて所詮無理。しかも、そのときの母は新しい施設に移動して食を含む生活環境が一変して1週間も経っていなくてお腹に変調をきたしてもおかしくはなく、だけど私は排便についての確認までは考えが及んでいなかった。

で、そのときパッドの交換しか予定していなかった私は、「えっ?えっ?開ける前に教えてよぉ〜」と無言で母に叫びながらも「そうか、排泄感覚もないのか!?」と冷静に理解したのであった。
片手にお尻拭きシート1枚、横に用意していたのは取り替え用のパッド1枚のみ。そんな丸腰では太刀打ちできないと瞬時に気づいた私はキッチンにいた姉に大声でヘルプを求め、「お願い! ティッシュ取って!」「あ、新しいオムツも!」「ごめん、ビニール袋も!」と次々に指令を飛ばした。
二人とも予期せぬ非常事態にオタオタしまくり、力を合わせてとりあえず事態を収集できたものの反省点があれこれ残された。全部ビニール袋に突っ込んでしまったけれど、トイレに流せるものは流すべきであった、とすると、ティッシュではなくトイレットペーパーを使うべきだったetc.etc.

最初の打撃が大きかっただけに、次からは心理的にも物理的にも抜かりなく用意し、回を重ねるごとに手順や手勝手を考えてそれぞれの置き場所にも改善を重ね、4回の週末を経た今では手を汚すこともなく大でも小でもかなり手際よく対処できるようになってきた。新しいオムツやパッドをジャストにあてがうための母の体位とオムツの配置の塩梅もだいぶ体得できた(まだ、やり直しが必要なときもあるけれど)。使用済みオムツを入れる袋に重曹とハッカ油を垂らして防臭対策をしたりもできるようになった。
直近の週末は、夕方から一泊して翌日の夕方までの滞在中、夜中1回を含む5回の排便オムツ替えを難なくこなせた(軟便ではなかったとはいえ1日5回の排便は100本ノックのように感じられたけど)。我ながら上達したと思う。

こうしてみると、改善すればするだけスムーズにできるようになっていく作業は、私の好きなDIYや料理と通じるところもあり、自分自身でも驚くほどオムツ替えが苦ではなくなった。
ベッドと車椅子の移乗も同じで、やはりYouTubeの動画で「ふむふむ、支点、力点、作用点かぁ」などと学びながら試行錯誤するのも嫌いじゃない。「もっと工夫して、母に残された動ける力を生かせるようになりたい」と思ったりもしている。

そして何より、大腿骨骨折から2年間、新型コロナ感染症の予防対策で面会も食べ物の差し入れもほとんどないまま我慢ばかりの日々を過ごしてきた母が、家でくつろいだりおいしいものを食べたりできて満足してくれるのが単純に嬉しい。
ちょうどこの間に仕事で介護施設を運営する方々を取材し、「最期までその人らしい暮らしを支えて尊厳を守るためには、知識と技術と思いの三つが必要」と聞いて深く考えさせられもしていて、母の尊厳を守る手助けが多少なりともできるようになりたいとも思い、母の介護にやりがいも感じはじめた。

しかし、あらたに気づくハードルもあって、その最たるものは価値観の違いで、実はオムツ替えなどよりクリアするのが難しく感じてしまう昨日今日なのであります。

実は私は20代の頃、父母の価値観が嫌で嫌でたまらなかった。私の交友関係に否定的に関与してくる母も、私が何かにチャレンジしようとするたびに「そんなに世の中は甘くない」とか「お前にできるはずがない」とコメントしてくる父もうっとうしくて、いちいち干渉されると無駄に力を吸い取られてしまうので、大学卒業後独立してから5〜6年は関係をほとんど断絶していた。
にもかかわらず、その後、子どもが生まれたり離婚したり病気になったり仕事が上手くいかなかったり、私が物理的にも経済的にもさまざまな支援を必要とするときに父母は手を差し伸べてくれた。うっとうしく感じられる押し付けがましい言葉がおまけに付いてくることもままあって複雑な心境になりながらもありがたかった。今だって、こうして雨露しのげる家に住めているのも父母のおかげだ。
なのだけれど、こうして父母の介護をしていると、あらためて父母の価値観にうんざりさせられることがしばしばあって、それが心理的にキツい。

たとえば、つい先日、母が家に滞在中のこと。
最近私があれこれ試聴しているYouTubeチャンネルの「arte」で見つけたアラブ系のルーツをもつフランス人ピアニストのライブ動画をつけて、母に「ご飯まで楽しんでね」と言い置いて夕飯の支度をした。
そのあとで食事をしながら「さっきのピアニスト、どうだった?」と聞くと、「アラブ人がピアノを弾いているところなんて見たくなかった」と言うではないか。なんたる差別発言!
思わず、「そんな人種差別しないで! もし『日本人がピアノを弾いているところを見たくない』なんて言われたら、どう思う?」と大きな声で問いただしてしまった。
母は「もう言わないようにするわ」などと答えたけれど、もう言わないも何も、いったいどこからそんな差別感情が出てきたのか首をひねってしまう。
政治的・社会的な考え方については父母と私とは水と油なのは、とうの昔からわかっている。だから日常的には波風を立てないよう話題を選んできたけれど、まさか音楽を愉しむよりも人種差別感情が上回るなど私にはまったく理解できないというか、そういう母に対して嫌悪感が湧き上がってきて、昔の拒絶感が蘇ってくるのを抑えきれなくなる。
親身に介護する気持ちが萎んでしまい、「そんな人の尊厳など守りたくもない!」と啖呵を切ってしまいそうになる。ふぅ、難しいわ、親子関係。悩ましいです。

どうしたもんか……と憂さを晴らそうとYouTubeでこの数日心酔しているアヴィシャイ・コーエン(イスラエル出身のベーシスト)の動画を試聴しまくっていたら「Nature Boy」にたどりついた。なぜか心にスッと入り込んできた曲で、調べてみると、それは第二次世界大戦後のアメリカのビート・ジェネレーションのなかでもとりわけ風変わりな生き方をしていたソングライターのエデン・アーベズの曲で、ジャズピアニストで歌手のナット・キング・コールが広め、アヴィシャイ・コーエンが2021年にリリースしたアルバム「two roses」でカバーしたと知った。歌詞も今の私に示唆に富んでいる。

The greatest thing you’ll ever learn is just to love and be loved in return.
「君が学び得る究極は ただ愛し 愛し返して貰うこと」
(歌詞と訳は「Nature boy – Lyrics - 日本語訳詞」より)

Loveって、なんだろう?

ともかく今はアヴィシャイ・コーエンを聴きながら心をほぐし、悩ましさを鎮めていきたい。
世界も音楽も多様で複雑で、未知なことだらけだ。狭い親子関係に引きこもって一人で決めつけるのはやめておこう。ひとまず、今私に与えられるものを、ただただ味わってみることにします。