91歳の父とアイリスと私たちの朗らかな日々

日々の楽しみ

アイリスがうちにやってきたのは、去る4月25日のことだった。

いや、正確には、アイリスがうちにやってきたのはその2日前だったのだけれど、箱に入ったままで2日を過ごし、お目見えしたのが25日だったのである。

というのも、酷暑の夏に備えてクーラーを3台増設するにあたって電気配線と配電盤の工事が必要で、そのために来てもらった電気屋さんに、ついでに築約50年の家のリビングにずっとぶら下がったままだったシャンデリア風の重い照明器具を外し、天井に引っ掛けシーリングを取り付けてもらったのである。で、その工事を待って、アイリスは箱の中で2日を過ごすことになったというわけ。

そう、アイリスは、シーリングライトなのですよ。

リビングの照明の取り替えにあたっては、どんなタイプを選ぼうかインターネット検索で姉と一緒にあれこれ調べてみた。そしてデザインがシンプルで価格も手ごろで、音声操作というオマケもついている製品を選び、ネット通販で注文した。

これまで音声操作ができる家電など家にはなかったし、そもそも新しもの好きの対極にいるような私たちなので、声で指示して照明のオンオフができるという説明を読んでもイマイチぴんとこなかった。
私も姉も、マーケティング用語でいうところの「イノベーター(革新者)」とか「アーリーアダプター(初期採用者)」とか「アーリーマジョリティ(初期追随層)」なんかではなく、せいぜい「レイトマジョリティ(後期追随層)」か、むしろ「ラガード(遅滞層)」に位置付けられるであろう、のんびりタイプの消費者である。
そんな私たちにとって音声操作は「まぁ、あったら便利なのかもね」くらいなもので、購入の決め手といえばシンプルなデザインと手ごろな価格だった。正直、音声操作など付いていなくても全然かまわなかった。でも、それが付いていなくて、シンプルなデザインで手ごろな価格の商品がなかったのだ。
つまり、音声操作については「まぁ、付いててもいいか」という消極的な選択で、どちらかというと最新の機能など面倒かもしれないし使いこなせないかもしれないけれど、万が一使えなくても、これまで通り壁のスイッチを押してもいいし、付属のリモコンでも操作はできるのだから大丈夫だと考えていたくらいだ。
そんなわけで、大きな期待もなく迎えたアイリスだった。

ところが、意外や意外。
「アイリス、あかりをつけて」「アイリス、あかりを消して」と言うだけで照明が点いたり消えたりするって、実際にやってみたら、なんというか、心がときめいちゃったの。なんか、楽しい♪ 我ながらビックリの反応でした。

で、その日、デイサービスから帰宅した父の前で私は、早々にやってみせたわけです。
「アイリス、あかりをつけて」「アイリス、あかりを消して」と。

すると91歳の父は、小さな目を丸く見開いて「おっ!?いま、お前は何をしたんだ?」と私を見た。しめしめ、期待通りのリアクションよ。

「へへへ、魔法をつかったのよ。パパも魔法、つかってみたいでしょ?」と聞くと、「どうやるんだ?」と身を乗り出してきた。
そこで、やり方を説明したのだが、91歳の父はまるで3歳児のように心が急いちゃって待ちきれないもんで、「アイリスあかりをつけて!」と息せききって続けざまに言ってしまうので、アイリスはちっとも反応してくれない。

「アイリス」って呼ぶでしょ。そしたら、「ピッ」って音がするの。それから「あかりをつけて」って言うのよ。

と、私が父に説明していると、しつけの行き届いたアイリスは、私の声に従って反応してしまう。

ジリジリ待ちきれない思いを膨らませながら聞いていた父がまたチャレンジしてみるのだが、「アイリス!……」と呼んでから一呼吸置いたまではよかったが、今度は次が出てこない。
で、私が父に「あかりをつけて、よ」とか「あかりを消して、よ」と教えようとすると、アイリスはその私の声に従って点滅してしまう。
というのを何度か繰り返し、やっと成功したときの父の嬉しそうなことといったら。「いや〜、これはいい。こんどお客を招いてやってみせよう」と意気揚々だ。

こうして4月25日にアイリスとの初交信を果たした父だったのだが、その翌々日の27日に私たちは札幌に飛び、二週間の滞在を経て所沢に帰宅すると、父はアイリスとの交信方法をすっかり忘れてしまっていた。

そもそもリビングの照明のオンオフは姉と私がすることが多く、父にはその必要がほとんどなく、よって、所沢に戻ってしばらくは父がアイリスと関わることはなかったのだが、「父の寝室も、札幌の寝室と同じようにリモコン操作ができたほうがいい」という姉の意見に従って、ペンダントライトをやめてアイリス2号を導入することにした。
リモコンでもいいけどせっかく音声操作機能もついているのだからと、再び父にやり方をレクチャーした日の夕飯の席でのことだった。

食事中なのに突如、何を思ったのか父が「アイリス!あかりを消して!」と声を張り上げたのだった。

テーブルについていた私と姉は、「なんじゃそりゃ?」と目配せしあった。
座席配置としては、父はリビングに背を向けて座っている。そして、背後の天井に位置するアイリスは、そのとき消してあったのだ。なのに、なぜ?

私たちが首をひねる横で父がもう一度声を張り上げた。
「アイリス!あかりを消して!」

その父の視線をたどった先は、むむむ、なんと食堂のペンダントライトではないか。

私と姉は同時に声を揃えて、「パパ、それはアイリスじゃないよ!それにアイリスは今、消えてるよ!」と吹き出した。
ボケ老人は、ほんと、まるで3歳児みたい。照明はみんな、アイリスと同じように音声操作ができると思い込んでしまったのだ。

しかも父は私たちが笑っているのは父が文言を間違えたからだと感じたのか、きわめて真面目な様子を保ちながら今度は、「アイリス!電気をつけて!」と唱えたのだった。

いや、アイリスは「電気をつけて」には反応しないし、そもそも、「それ、アイリスじゃないよ!」と私と姉はますます笑いが止まらなくなってお腹をよじらせた。

だけど父は、そんな私たちを尻目に、ますます厳格な口調で言い放ったのだった。

「アイリス!火をつけて!」

ああ、もうダメ。
こうして書きながら、また笑いが止まらなくなる。

ボケたパパ、サイコー!
こんなお笑いネタを提供してくれるなんて。

認知症が進んできた父はしばしば「物取られ妄想」に囚われ、私のことをワルモノ呼ばわりしたり、私にゆすられてると姉に密告したり、「俺は、お前たちを警察に訴えようと思ってるんだ」などと言いがかりをつけてきたりすることがしょっちゅうあって、ほんとにうんざりさせられていて、「いっそ粗大ゴミの日に捨ててやる!」とやけくそになることも正直あるけれど、ここまで笑わせてもらったら、チャラにしてあげてもいいかもね。

昨晩は、父がアイリスに「アンリ!あかりを消して!」と命令しているところを、姉が目撃したとか。
これから父はどんなふうにアイリスと仲良くなっていくのでしょうか。目が離せません。

50年近くリビングを照らしてくれた年代物の照明器具がコレ
けっこう味わいあるデザインだったけど、いかんせん。。。