遠方の父に、牛丼づくりをリモート・レクチャーしたときのこと

日々の楽しみ

今年の夏は北国の札幌でも酷暑が続き、8月7日に母が熱中症で入院してしまった。1ヶ月ほど病院での治療を経て、老人保健施設に移って約2ヶ月をリハビリに費やし、母がやっと自宅に戻れたのは11月2日のことだった。

その間、約3ヶ月にわたる母の不在中、90歳の父は一人暮らしを余儀なくされた。
家事がほとんどできないうえに、認知機能がしばしば頼りなくなるので、8月中旬から9月中旬には、私が札幌の父の家に滞在して家事をしたり、父のデイケアの手続きを進めたり、母の転院を段取りしたりした。
そして私が所沢の自宅に帰ってから1ヶ月半ほどは、1日に幾度も父と電話で連絡を取り合う日々を過ごしていた。

モーニングコールにはじまり、その日の予定、ゴミ捨て、薬、血圧、その他諸々の確認を電話でしていたのだが、食事の支度も電話でアテンドすることがあった。

夕食は配食サービスで届くから、食事の支度が必要なのは、ヘルパーさんが来てくれる日とデイケアに行く日以外の火曜と水曜と土曜の昼食である。
冷凍の焼きおにぎりを電子レンジでチンするとか、冷凍ピザをトースターで焼くといった簡単なことなのだが、もともと家事経験が豊かではないうえに父は不器用で、さらに認知機能がゆらいでいる今となっては段取りを自分で考えて支度することができない。
手順をまとめて伝えて「じゃ、作って食べてね」というわけにはいかないのである。いちいちやるべきことをその場その場で伝えて、食べられる状態まで見届ける必要があるのだ。

ある日、12時頃に「冷凍の牛丼の具があるよ。作ってみる?」と提案すると、「そうか、やってみるかな」と乗り気になった。

私:じゃあ、まずは冷蔵庫の一番下の引き出しを開けてみて。「パン」の引き出しの下だよ。
父:よしよし、ここだな。開けたぞ。
私:一番左側の奥に、「牛丼」の袋があると思うんだけど。
父:・・・(しばらくゴソゴソという音)・・・おお、あったぞ。これだな「牛丼」って袋に書いてあるぞ。
私:じゃあ、ひとまず袋をガス台の横に置いておいて、こんどはガス台の下からお鍋を出そうね。右下に、牛丼の袋がそのまま入るくらいの大きさの片手鍋があるよ。
父:・・・(ガタゴト、ガタゴト)うーん、これでいいな。大丈夫だ。
私:お鍋に水を入れて袋ごと入れて、火にかけてね。
父:・・・(ザーッと水を入れる音につづいて、ガタゴト、カチッカチッと着火音)できたぞ。
私:じゃあ、あたためてる間に、器を出しておこうね。いま、ガス台の前にいる?
父:ガス台の前にいるぞ。
私:なら、後ろを向いて、食器棚のまんなかの扉を開けてみて。いつもパンをのせるお皿の下の棚に、深皿があるでしょ?
父:・・・(ガタゴト、ガタゴト)これかな・・・ブルーの模様が縁についてるやつだな。
私:そうそう、それ。じゃあ、器はガス台の横の調理台に置いておこうね。
父:よし、置いたぞ。
私:次は、ご飯をあたためようね。食堂のテーブルの奥に、パックご飯があるでしょ?
父:うーん、どこだ? どこだ? ないなぁ・・・ああ、これだな、あったぞ。
私:あたため方、覚えてる? フィルムを赤い部分だけ開いて、電子レンジに入れるの。
父:ああ、そうだったな。ちょっと待てよ、やってみるからな。・・・フィルムを剥がしたぞ。これをレンジに入れて、ボタンを2回押すんだったな。
私:そうそう、よく覚えてたね。
父:・・・(ピッ、ピッ、と電子レンジのボタンを押す音)
私:待ってる間に、冷蔵庫から紅生姜を出しておこうか。冷蔵庫の扉、開けてみて。
父:どれどれ・・・紅生姜か・・・ないぞ。
私:「朝ごはん」の紙が貼ってある段の下の段にあるよ。奥の方だよ。
父:・・・(ガチャ、というプラスチックの音)
私:いま、「チーズ・バター」って書いてある引き出しを開けたでしょ?
父:そうだ。
私:そこじゃないの。その上の段よ。で、奥のほうに赤い紅生姜が入った瓶があるはずなんだけどな。
父:そうか、この上か。・・・ああ、あった、あった、紅生姜だ。
(ピピピッ、ピピピッ、と電子レンジの音)
私:ご飯、あったまったね。さっきの器に入れられるかな?
父:どれどれ・・・ちょっと待てよ。・・・・・・・・・・・・・・・入れたぞ。
私:そろそろ牛丼の具も熱くなってるはずだから(文章だとあっという間に読めるが、実際には一つ一つの動作は遅く、かつ間が長いので時間はすでに10分以上経っている)、お湯から牛丼の袋を取り出してみて。火傷しないように、気をつけてね。
父:どれどれ・・・ちょっと待てよ。・・・・・・・・・・・・・・・・取れたぞ。
私:熱いから気をつけて、袋の上の部分を切り取って、中身をご飯の上にかけてね。
父:袋の上を切るのか・・・。
(しばし沈黙)
私:もしもし? いま、何してる?
父:指で袋を切ろうとしてるが、切れない。指が痛い。
私:ハサミで切ったほうがいいよ。笑
父:ハサミか・・・ないなぁ、ハサミは。
私:いま、流しに向かって立ってる?
父:ああ、流しの前にいるぞ。
私:そしたら、流しの向こうに、緑色の取っ手のハサミがコップに立ててあるのが見えるかな?
父:・・・ああ、見えるぞ、緑色の取っ手のハサミだな。・・・おまえ、見えるのか?
私:見えないけど、いつもそこにあるからわかるのよ。笑
父:そうか、そういうことか。笑
私:そのハサミで、袋の上をまっすぐ切り取ってみて。
父:よし、切るぞ。
(しばし沈黙)
私:もしもし? 切れた?
父:切れたが、まだ冷たいなぁ、凍ってるところがあるぞ。
私:えっ!?・・・まだ凍ってるって!?(・・・なんでだろ?)・・・じゃあ、しょうがない、鍋のお湯を捨てて、鍋に直接具を入れてあたため直そうよ。
父:いや、それはできないな。
私:えっ!? できない? なんで?
父:袋がまだ開いてない。
私:えっ!?・・・袋がまだ開いてないって!?・・・でも、さっきハサミで切ったよね?
父:切ったぞ。だけど、中に袋が2つあるんだ。
私:・・・えっ!? 2袋!?・・・(しまった! そういえば生活クラブの牛丼の具は、2袋1セットだった! それをそのまま入れてたんだ、トホホ)・・・じゃあ、もう1度、袋ごとお湯に入れてみて。
父:いやぁ、しかしこれは多すぎるなぁ。
私:食べるのは、1袋でいいよ。もう1袋は、あとで冷蔵庫に入れて明日でも明後日でも食べればいいから。
父:そうか、そうだな、そうしよう。
(しばし沈黙)
私:そろそろ、どう?
父:そうだな、熱くなったようだ。
私:じゃあ、火傷しないように、お湯から袋を取り出して。
父:・・・よし、取れたぞ。袋を切るぞ。
私:ご飯にのせるときも、熱いから気をつけてね。
父:・・・よし、のせたぞ。
私:さっき出した紅生姜、お箸でつまんで上にのせるといいよ。
父:・・・よし、できたぞ。
  ・・・
  ・・・だが、オレはまだ腹が減ってないんだ。朝食が遅かったんだ。
私:・・・
  ・・・
  ・・・でも、作っちゃったし、熱いうちに食べたら?
父:そうだな、じゃあ、食べようか。ほな、いただきます、さいなら。
(ブチっと電話は切れる)

フーッ! やれやれ・・・そんなこんなの約30分。
電話の向こうの音に耳をすまし、父とキッチンの様子を一心に思い浮かべながらのリモート・牛丼レクチャーのあとで、集中が切れた私はすっかり脱力してしまった。

でも今になって思い出すと、なかなか心あたたまるひとときだったなぁと一人で笑ってしまう。

翌々日、「おとといの牛丼の残り、食べたら?」と勧めたところ、「そんなものは冷蔵庫にない」と父は言う。あのとき食べてしまったのか、それとも捨ててしまったのか。父の記憶には、無論、何も残っていないと言う。

牛丼の具1袋、いったいどこに行ってしまったのやら。
謎である。
でも、こうしてあの日の顛末をたどっていると、時空のはざまにプカプカと浮かんでいるのが見えてくるような気がしてくる。