朝晩の冷え込みが、日に日に厳しくなってきた。
空気が冷たく澄みわたると、富士山を望める日ががぜん増えてくる。
ラジオの朝の天気予報でも、気象予報士さんが「今日は富士山がくっきり見えました」と明るい声でコメントすることがしばしばだ。
不思議なことに、富士山が見えるとなんだか嬉しくなる。青空に頭頂の白さが映える朝も、夕焼けにシルエットが浮いている夕暮れどきも、見えると「あ!富士山だ!」と心が弾む。
そしてまた不思議なのは、目には大きく見えるのに、写真を撮るとすごくちっちゃいこと。人の脳は、見たいものを大きく印象づける働きがあるのだなぁ。しみじみ不思議。
自宅のある所沢ニュータウンは広々とした草原のような米軍基地に隣接していて、うちから400mほどの基地沿いの道にビューポイントがある。11月に入った頃から、91歳の父はそこで富士山を眺めるのがマイブーム。ほんと夢中で、熱い、熱い!
起こしにいくと「だるい」とグズグズしている朝でも、「今日は天気がいいから富士山見えるよ、きっと」と言うと、「そうか、起きるか!」と力が湧いてくるみたい。
デイケアに行かない日は、日中2度も3度もヨロヨロと出かけては、「いやぁ、見えたぞ、素晴らしかった」と嬉しそうにしていたり、「今日は見えなかった」と気落ちしたりしている。
もはや、生きがい富士山!のレベルだ。
このビューポイントまでは、道の中央が歩道になっているグリーンベルトをたどって行けるので迷う心配がなく、杖を持っていれば一人でも安心して送り出すことができる。
父は、このビューポイントを知ってから、出会う人出会う人に「富士山は見えますか?」と聞きまくっているようで、みんながその場所を教えてくれるのだとか。
「富士山が見えるか聞くと、みんな笑顔で嬉しそうに教えてくれるんだよなぁ」と感慨深げに話す。もう何度も同じことを聞かれて何度も同じことを答えてくれているご近所さんもいるのだろうけど、高齢者に優しい地域で良かった。
かなりボケているうえに目も悪いからか、「今日は富士山が2つ見えたぞ」と喜びいさんで帰ってきたこともある。そりゃないだろ。雲または市民体育館の屋根なんかをカウントしちゃったのかな? 冗談で言ってるのかなと思ったけれど、本人はいたって真面目な表情を崩さないのであえて深追いはせずにおいた。
「通りがかりの若い男に『富士山が2つ見えますね』と言ったら、『1つですよ』と教えてくれた」と報告してきたこともある。親切な人で良かった。おうちに帰って「今日、おかしなおじいちゃんが『富士山が2つ見える』って言ってたよ」なんて家族に話して笑ってたりして。ふふふ。
そんな熱いブームの最中なので、札幌で入院中の母から電話があると、父の話題の半分以上が富士山だ。「今日は見えた」「孤高の姿だ」「おまえも早く退院して、一緒に見よう」etc.
いつも同じことばかり繰り返しているけれど、母は「それはいいわねぇ」と聞いてあげている。さすが長年の夫婦だ。私なら、「もう聞き飽きた」と遮断してしまいそうだ。
そうして父の富士山話をたっぷりと聞かされているうちに、また1つ不思議な現象が起きてきた。「富士山とその横に男の人が立っているのが見えるのよ」と母が言うようになったのである。「看護師さんは『見えませんよ』って言うんだけど、病室の窓に見えるのよ、私には」と母はきっぱり断言する。
……近頃、認知症に関する本を何冊も読んでいる私は、「もしや幻視が出るというレビー小体型認知症か?」とビビッと反応してしまったが、ひとまず、母が骨折で入院した8月から離れ離れで会うことができずにいる父母の、心温まるエピソードとして理解しておこうと思う。
これから冬が深まっていく。
富士山を励みに、父が寒い季節を元気に乗り越えられることを願ってます。