老父の言葉に傷ついても、わたしが先に忘れよう

気になること

新しい年を迎えて6日には所沢でも雪が降り、そうこうするうちに1月の3分の1が過ぎていった。
普通なら「あっというまだわぁ〜」なんて言いたくなるところだが、今回は違う。むしろ、「あぁ、長かったぁ〜」というのが実感だ。

というのも年末年始の1週間、91歳の父が週4日通っているデイケアがお休みで、選択の余地なく丸8日ずっと父とともに家で過ごすことになったのだ。

加えて、私ときたら28日頃から「なんか調子悪いなぁ」と感じているうちに、30日には右耳が痛みはじめ、バッファリンを飲んでも耐えかねて一晩中眠れない事態になってしまった。その痛みたるや、青白い閃光とともに先端の鋭利な矢印に右耳の奥が切り裂かれるのが見えるような気がしたほどの鋭さで、しかも来るか来るかと待ち構えていると来ず、ふと気を抜いた瞬間にズババババッと激痛に貫かれること数十秒間隔から数分間隔の繰り返し。気の休まる暇がない。痛みってほんと辛いものだと、文字通り痛感した。
31日には市内に耳鼻咽喉科の休日診療がなかったので近所の薬局でバッファリンよりも強いと勧められたロキソニンを買ってきてやりすごし、元旦早々、休日担当の耳鼻科に電話すると「熱がないなら診る」とのことなので、公共交通だとバス→電車(乗り換え1回)→徒歩→電車→徒歩というめんどくさい経路を取らねばならないロケーションなら自宅から約5kmの道であれば自転車の方がむしろしんどくなかろうとペダルを踏んだ。ところが診察台で右耳を診てもらうと、不機嫌そうな年配の男性医師に「耳垢が溜まっていて見えない」とまずは嫌味たっぷりに苦言を呈され、私は「だったらさっさと耳垢かっぽじって診てくれ」などと言い返す胆力はみじんもなくただ背中を丸めるのがせいぜいで、医者は不機嫌なまま「ほれ」と小粒の真珠くらいの大きさのソレを取り出して私に見せてから、耳のあちこちを器具で軽く叩きながら「痛いか」と聞くので「いいえ」「いいえ」と答えていくと、「耳は悪くない」との診断がつけられた。そして診察前に書いた問診票を見ながら医者が「1週間前に鎖骨あたりにでた発疹とやらをちょっと見せてみなさい」と言うので襟元を下げてその部分を示すと「それはヘルペスだ。帯状疱疹だろうから皮膚科に行きなさい。私は専門外だから薬の処方は出せない」とのたまった。
耳が痛かったのに原因は耳じゃなくて、「鎖骨あたりにでた発疹とやら」と連動した痛みだったのだ、なんと。発疹はすでに治りかけているかに見えていたのだが。

診察料3000円弱を支払って再び自転車で帰宅すると昼過ぎになっていたので、朝作った雑煮用の汁を温め、玄米餅を揚げてそこに入れ、父と姉と一緒にテーブルに着いた。市報を見ながら姉が「今日は市内に皮膚科の休日診療があるけど、明日はないよ。帯状疱疹はたぶん早く診てもらったほうがいいと思う」と助言してくれて、その皮膚科は自宅から4.5kmで、バス→電車→徒歩約11分で計40分かかるとgoogleマップさんが教えてくれたので、それならいっそ自転車で30分弱のほうが楽そうだと判断。幸い、お天気は良くて最高気温8°Cほどだからサイクリング日和だと思うことにして再びペダルを踏んだ。ネットの口コミではいつも混んでいるという医院だったが、午後3時頃に到着したときには待合室には誰もいなくて診察中が一人。中年の男性医師は先の耳鼻科医のように不機嫌でも高圧的でもなく、説明が若干わかりづらいきらいはあったものの看護師さんが丁寧に通訳してくれて、ああ、口コミに書かれていた描写はコレなのねと妙に感心してしまったのだが、要は、帯状疱疹に効く抗ウイルス剤を7日のあいだ毎夕食後2錠ずつ飲み、発疹に軟膏を朝晩2度塗り、ともかく1週間ほどは安静にすべし。「疲れがあふれてしまった状態だから、できればご家族に家事はお願いして、しばらく上げ膳据え膳にしてもらって」と、軟膏を塗りながら看護師さんが助言してくれたのだが、91歳の父が一緒に暮している今はそれは厳しい現実だなぁと私は内心ひとりごち、ここでも背中がちんまり丸くなってしまった。

とはいっても元旦早々に2つの医院をハシゴして合計20kmもサイクリングしてしまったツケも響いたようで2日と3日はなかなか起きられず、仕事が休みの姉に甘えて眠れるだけ眠らせてもらったのだが、姉が仕事に出かけ、私も午前中は皮膚科に再診で出かけた4日のことだった。
「帯状疱疹は特効薬ができる前は、入院して点滴して安静にしていたほどの病気だから、まだ静養してくださいね。洗濯を干したり台所に立ったりも控えて」という看護師さんの言葉が耳に新しかったものの、まずは父の昼食を作らねばと急いた気持ちで帰宅した私に父が突然、「お前は俺の金をどうにかしたんだろう」と荒々しく言い立ててきたのだった。
できればすぐにベッドに倒れこみたいほど疲れていたのだが、父はそんなことを慮れるような状態ではなかった。これまでも何度か、私や姉が父のお金を勝手にしていると思い込んで訳のわからないことを言い募ったことはあったが、通帳を見せながらゆっくり説明したり徐々に話をそらしたりして収めてきた。でもその時の私にはそんなことをする余力はなく、「病気だから休ませて。お金の話は、またゆっくりね」となだめたのだが、父は「そんなこと言ってる場合じゃない。病気なんてどうでもいい」と激高するばかり。それでも相手にせずに、というか相手にする気力がなく、私は昼食の支度をすべく台所に向かった。

その後3日ほど、父のそばにいるのも嫌、見るのも嫌、何かしてあげようなんてカケラも思えなくなってしまった。まだ体も辛かったので姉に父の世話は任せ、なんとか食事の用意と片付けをこなすだけで他は免除してもらった。昨年夏に父を所沢に連れてきてからほぼ毎食後やっていた歯磨きも、12月に入ってからやるようになったお風呂の介助もやめて、姉に見守りだけしてもらった。
幸い5日からデイケアが始まり、丸2日間、朝の見送りのあとは湯たんぽを抱いてお腹を温めながら一人でひたすら休み、7日にはほぼ復活できた。う〜、やれやれでした。

で、ゴロゴロ休みながら考えていた。
一昨年来、父はどんどんボケてきた。これからも、ボケは進むだろう。どんなスピードかどんな様子でかはわからないけれど。
90歳を越えているのだから当たり前だと思いながらも、その理不尽な言動にはほとほと消耗させられる。そんな日々を昨年夏から毎日重ねてきたから、今回これほどの拒絶反応になってしまったのかな〜とも思う。でも反芻して考えるに、日々溜まっていく心労もあるけれど、やはり、あの日病院から帰宅した私に対する父の冷酷な言動に、私が深く深く傷つき、それが拒絶反応として表れたのだと気がついた。

病気で弱っているときは、いたわってほしいし、そっとしておいてほしい。それなのに「お前が俺の金をどうかしたんだろう」なんてありもしない罪をなすりつけられたうえに、「病気なんてどうでもいい」と冷たくあしらわれたのである。認知症で物事の判断ができないのだと頭でわかってはいても、私の心はその言葉に激しく傷ついてしまっていたのだ。こればかりは、どうしようもない。

だけど、例えば私が父に「あなたはこんな風に私を傷つけた。もう二度とあのようなことはしてほしくない」などと伝えたとて、父はすでにあの日の自らの言動を覚えてはいないだろうし、今後のために覚えておくこともできないだろう。こればかりは、どうしようもない。

じゃあ、どうしたらいいんだろう?
以前、父に意地悪したくて仕方なくなったことをこのブログに書いたが、今回はそれをさらに超え、ほとんど嫌悪感にまで膨らんで拒絶反応を起こしてしまった。行き場のない憤りと諦めが心から溢れ出てきた。こうなったら、父を大きなゴミ袋に入れて回収日にゴミ収集所の黄色いネットの下に置き去りにしてしまえ!……とイメージした瞬間、なんだか笑えてきて心にちょっとだけ余裕ができた。

そして折しも昨年12月頃から繰り返し聴いている藤井風さんの『帰ろう』のこんなフレーズが心に響いてきた。

“ 憎みあいの果てに何が生まれるの
わたし、わたしが先に 忘れよう ”

……そうだよな、「わたしが先に 忘れよう」、それしかないじゃん。

認知症を上回るスピードで、忘れる。
わたしが先に、忘れる。
父の言動に傷つく前に、忘れる。
ともかく、瞬時に忘れる。
それっきゃない。

というわけで、今年の目標は「忘れる」にしようと思う。
いっそ清々しく健やかなイメージで「健忘」と毛筆で書いて掲げちゃおうか。

さあ、2022年、忘れん坊大会の幕開けだ。
見ておれ父、わたしは負けないぞ。