東京の森|川の流れで木材を運ぶ「筏流し」

森と暮らし

その昔、多摩の山々で伐られた木々が、多摩川の流れに乗せて運ばれていたことをご存知ですか。
「聞いたことある」「昔の写真を見たことがある」という方もいらっしゃるかもしれませんね。

『多摩川絵図』(今尾恵介・解説/けやき出版)を見ていたら、〈第二十一図〉の解説にこんな記述がありました。

絵図では古川薬師とあるのは現在西六郷二丁目にあたる川沿いの安養寺だが、その近くの河原にはいくつもの筏が集まっているのが描かれている。これは青梅より上流から筏に組まれた丸太が陸揚げされる場所であり、ここで船に積み替えられて海路を江戸へ向かっていたという。

「いくつもの筏が集まっているのが描かれている」という部分がこちら。

川で筏を操っている人々、地面に並べられている材木、立てかけられている材木……見ていると、昔の人々の営みと息づかいが感じられます。

古川薬師の川向こうにあるのは、東海道川崎宿。渡し舟で多摩川を越えている人や馬の姿も描かれています。

『多摩川絵図』は、『調布玉川繪圖』に今尾恵介氏が彩豊かな解説を加えて2001年に発行された本です。


原図の『調布玉川繪圖』は、多摩川上流の大菩薩峠付近から河口に至るまでを描いた巻絵で、江戸後期の弘化2年(1845)に木版刊行されました。
関戸村(*1)の名主で文化人だった相沢伴主(ともぬし)が自ら玉川(*2)の水源を探索しながらデッサンし、長谷川雪堤(*3)が浄写しました。美しい絵図は、ただただ眺めて飽きません。そして今尾恵介氏の解説は、地名のいわれ、当時の文化や風習、交通の変容などの多彩な話題が盛りだくさんで、絵図を見る楽しみをさらに膨らませてくれます。
(*1)関戸村:現在、多摩市関戸 (*2)玉川:現在、多摩川 (*3)長谷川雪堤:『江戸名所図会』で知られる長谷川雪丹の子

「河口近くに筏流しが描かれているなら、きっと上流でも……」と思い、ページを繰り戻してみると、いました、いました、〈第十七図〉に。右岸に登戸村(*)が見える辺りです。こちらの筏には、筏乗りが二人描かれています。
(*)登戸村:現、神奈川県川崎市多摩区登戸

ちなみに、ADEACデジタルアーカイブのページでも『調布玉川繪圖』を閲覧できます。
(すごいですね、こんなふうにWEBサイトで見られるなんて!)

筏流しは何日かかった? 筏の大きさはどのくらいだった?

ところで、この筏、上流からどのくらいの日数をかけて多摩川を下っていたのでしょうか。

『五日市町史』(昭和51年発行)には、筏の輸送について以下のように記されています。

町内山田(*)の堰を起点にして、高月・拝島・立川・府中・宿河原・溝の口・二子とくだり、六郷に達した。(中略)
そのときの水量や筏乗りの技量によって異なるが、通常三日から一週間ぐらいはかかった。(中略)
しかし、特例として、夏の出水時に流すこともあった。これは危険を伴う急行便で、一人一枚の筏に乗り、その日のうちに六郷へ到着するという猛スピードのものであった。

(*)山田:現JR五日市線の武蔵増戸駅南側に山田の町名が残る

……最後のくだりでは、スリリングな有様が胸にグッときます。「筏乗り」とか「乗り子衆」と呼ばれた男たちは、高い身体能力を持っていたのでしょう。

そしてこの筏、かなりの長さだったようです。
以下、『青梅市史 上巻』(平成7年発行)の記述です。

「筏の規格には、江戸の材木問屋との間に古くから取りきめられたものと思われるが、天保十二年の三田領筏師仲間と登戸のほか橘樹郡八か村との出入文書「筏運上場御定」によれば、「筏一枚の方横七尺(*1)、元の方横九尺(*2)、長さ拾間(*3)、一人乗にて川下げ致し」とあり、(中略)平水の時は山元から羽村の堰までは一枚一人乗り、それから川下まで二枚一人乗りとする。船材などの大物は長さ十五、六間ぐらいまで、これはすべて昔からの仕来りの通りであると、断ってある。

(*1)七尺=約2.12メートル (*2)九尺=約2.72メートル (*3)拾間=約18.18メートル

前方の幅2メートルほどで後方は3メートル弱、そして長さは18メートルほど。
その大きな筏を、川上では一人一枚、羽村から先は二枚一緒に川の流れに沿って操るには、いかなる技が必要だったのでしょうか。

筏に組まれたのは、丸太、あるいは杣角(そまかく:規格の寸法よりも大きめに荒取りした角材)だったそうです。筏の上に杉皮や平板などの「上荷(うわに)」を積んで輸送することもあったといいます。

同じく『青梅市史 上巻』には、古老の話を元に概算すると「ちょうどトラック一台分かそれより少し大量になるぐらいであろう。」とも記されています。半端ないボリュームと重さだったことでしょう。

トラックに丸太や角材を積むには技が必要だと聞いたことがあります。それと同じほど大量の木材を、トラックという型のない状態で、定められた規格に則って筏に組むのは、さぞや鍛錬が要されたことでしょう。
熟練した職人の誇りは、想像に難くありません。

広重も描いていた「筏流し」

江戸後期の『調布玉川繪圖』に描かれていたのだから、そうそう、あれにも描かれていないわけがない……と思い立ち、紐解いたのは歌川広重の『名所江戸百景』。

予想通り、ありました、ありました、筏流しがあちこちに。

こちらは、「駒形堂吾嬬橋(こまがたどうあづまばし)」。浅草辺りの隅田川に筏流しが描かれています。
筏の長さを知った上で見ると、あらためて「長いなー」と感心させられます。

「大はしあたけの夕立」には、激しい夕立の中、隅田川で蓑と笠を付けてがんばっている筏乗りの姿が見られます。大雨の勢いで筏が沈みがちなのか、あるいは小分けした後なのか、先の絵よりも筏が短く見えます。

ところで、広重が描いていたこの2点は、隅田川の筏流しです。
『調布玉川繪圖』で描かれている多摩川のそれとは違い、上流の荒川を流路としていた「西川材」の筏だったかもしれません。

「西川材」というのは、現在の埼玉県南西部の飯能市・日高市・毛呂山町・越生町で採れる木々のことで、かつては荒川支流の入間川、高麗川、越辺川(おっぺがわ)を、やはり筏流しで江戸まで運ばれていました。「江戸の西の方の川から来る材」なので「西川材」と呼ばれるようになったといわれます。

ちなみに、『青梅市史 上巻』にこんな記述があります。

近世中期以降、江戸の人口急増と大火の頻発は、ますます木材の需要を高めた。これに応じたのが、多摩川、秋川の流域から産出した『青梅材』と、名栗川、高麗川、越辺川(おっぺがわ)の流域から産出した『西川材』とであり、ともに筏に組んで江戸へ運ばれた。現市域についてみるならば、小曾木、成木地域は西川材であり、その他は青梅材ということができる。

最近では、多摩川上流の東京都域の山々で伐採された木々を「多摩産材」と呼ぶようになりましたが、古くは「青梅材」と呼ばれていたことが、そして今は東京都に属する青梅市の小曾木と成木地域の木々が、かつては「西川材」に含まれていたことも、この記述からわかります。川が輸送路として重要な役割を果たしていた時代には、産地は、行政区ではなく川の流域によって区別されていたのです。

広重が描いた隅田川の筏には、もしかすると入間川を下ってきた青梅の小曾木や成木の木々も含まれていたかも……? 筏流しの絵図を眺めながら、思いはあちらこちらに羽ばたきます。