遠山富太郎著『杉のきた道 日本人の暮らしを支えて』(中公新書1976年1月発行)を読んだ。
私は杉が好きで、自宅のリビングにも寝室にも杉の無垢板を敷いている。
書斎の机も椅子も、杉材だ。
杉は、夏でもベト付かず、冬でも冷たくならない。
床や机など肌に触れることの多い面として、四季を通じてこれほど心地よい材を私は知らない。
そんな杉Loveの私だが、この本を読んで、あらためて杉ってすごい!と 心を揺さぶられてしまった。そして日本の風土で育まれた杉という植物が、人の暮らしや文化に深く関与してきた歴史に圧倒されてしまった。杉へのLoveは、もはやRespectの域に高められた。
著者は冒頭で、昭和12年(1937年)9月に京都の演習林本部から転勤して樺太の泊岸(とまりきし)に赴任したときのことを回想している。
泊岸村では9月の終わりはすでに冬の始めで、官舎には寸胴の小判形の鉄板ストーブが据えられていて、よく乾いた落葉松の割木がパチパチと勢いよく燃えていた。
そんな寒さの厳しい地域なのに、日本からの開拓農家の家は板壁づくりにトタン屋根。真冬には地面が凍ってあちこち持ち上がるため土壁も掘立柱も使えず、置土台ならクサビや石をはさんで家を水平に戻せるというのが、板壁とトタン屋根にする理由だったそうだ。
近隣の白系ロシア人たちは丸太組みの小屋でペチカを炊いていて、「日本人が一冬に炊く材木で家ができると笑っている」という噂も著者は聞いたという。
そして著者は、その官舎のストーブで暖をとりながら読んだ和辻哲郎の『風土』について語りはじめ、シチリアの春だのヨーロッパには雑草がないだの綴るのである。「ふーん。で?」という気分にさせられたところで次章に移ると、話は静岡の登呂遺跡に飛ぶ。あまりの振れ幅に「明治生まれのインテリの話にはついていけない…」などという偏見に満ちた劣等感で本を閉じそうになったところで、「え?え?え〜〜〜っ!?」と気づかされる。そう、話の要は「板」なのだった。
登呂遺跡といえば弥生時代後期、1世紀ころの集落と考えられている。そこから、おびただしい数の杉板が発掘されていたというのだ。登呂の時代から数百年ののちの飛鳥ですら、天皇が草葺きではなく板で屋根をふいた宮殿をつくって「飛鳥板葺宮」と名付けたほど貴重だった板を、権力を持たない東国の農民たちがふんだんに使っていた。それはなぜなのか、著者は地域の風土と植物種の分布、さらに杉という木の「割裂性」という特長を軸にして、その謎を解明していく。
杉は、ほかの樹種と比べて割りやすい。だから使いよく、運びやすい。刃物をつくる製鉄技術が未発達だった登呂の時代でも、割りやすい杉なら板ができ、住居も高床式食料貯蔵倉庫もできて、農耕技術と文化が飛躍的に向上したのである。登呂の集落は洪水で砂礫に埋没してしまったが、その技術と文化は受け継がれて各地に広がったと著者は説く。
醤油や酒の仕込桶、田畑の豊かな実りを支えた堆肥桶、薄く削いだ屋根板、物流と交通を支えた高瀬舟etc.……その材のほとんどは杉だ。著者は実際に見たこと聞いたこと、そしてさまざまな資料を紐解いて調べたことを元に、いかに杉が歴史を通して日本の暮らしを支えていたかを教えてくれる。
「山にはまだスギの美しい林が、たとえ人口植栽林でも、目を楽しませてくれる。しかしスギの木材が生活の多くの場面で日本人と結びつくことはほんとうに少なくなってしまった。せめてわれわれ日本人の心の中に、『スギの文化』を、優雅さと余裕を、持ちつづけたいものである。」と著者は本論を結んでいる。
この本が発行された1976年から、すでに45年の年月を経た今、杉材と暮らしの結びつきはさらに希薄になってしまっている。私はたまたま貴重なきっかけを得て、杉の無垢材の心地よさを知って暮らしに取り入れることができている。そして杉の快適さはもちろん、材として利用することが環境問題や健康問題の解決になることも広く伝えていきたいと考えてもいる。
今回この本を手に取り、あらためて杉のありがたさが身に沁みた。
だけど、気候変動による危機が世界的に拡大している今となっては、「心の中に杉文化と優雅さと余裕を持ちつづけたい」などとつぶやいているだけでは足りない。極寒の樺太で板壁にこだわった開拓民は反面教師にするとしても、長い長い歴史を通して暮らしを支えてくれた杉の板を、温故知新でもっともっと使っていく社会にしていきたいと思う。