あってはならないことが、今、起きている。それに対して、私たちができることとは?

気になること

ヴェーラ・ポリトコフスカヤ /サーラ・ジュディチェ 著/関口 英子・森 敦子 翻訳『母、アンナ ロシアの真実を暴いたジャーナリストの情熱と人生』( NHK出版 2023年11月発行)を読んだ。

ロシアのウクライナ侵攻が、まだ終わらない。2022年2月に始まり、すでに2年2ヶ月余。なのに終わらない。
そのさなかに翻訳出版されたこの本は、あってはならないことがロシアで次々と起きている苛酷な現実を私たちに教えてくれる。権力者にとって不都合な情報を発信する人たち権力者に対して反対の意志表示をする人たちがどんどん排除され、消されていく。恐ろしすぎる。

著者ヴェーラ・ポリトコフスカヤは、2006年10月7日(なんとウラジーミル・プーチンの誕生日)に殺害されたジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤの娘である。当時26歳で、出産を控えていた。前書きに、彼女はこう記している。

ロシアによるウクライナへの侵攻によって、わたしたちの生活は激変した。2022年2月24日以降、ポリトコフスカヤというわたしたちの名字はふたたび重い意味をもつようになり、脅迫の対象とされ、またもや命の危険にさらされることになった。

とりわけティーンエイジャーの彼女の娘(つまりアンナの孫)がクラスメイトから激しく攻撃されるに至り、ヴェーラは娘を連れて「自主的な亡命」という道を選んで第三国へ逃れ、この本を書いた。母アンナの教えのままに
勇敢でありなさい。そしてすべての物事をしかるべき名前で呼ぶのです。独裁者は独裁者と

時を遡り1994年、ボリス・エリツィンがチェチェンでの武力行使を開始し、その2年後にロシア軍は撤退した。しかし独立問題が未解決のまま残された。著者の母アンナはそのチェチェンに通って難民を取材し、新聞「ノーヴァヤ・ガゼータ」に記事を書きつづけた。国防省が記事を掲載しないよう圧力をかけてきても、厳しい脅迫にさらされされても、書きつづけた。

わたしの母は、一部の男性ジャーナリストが戦争報道に携わるときに放出するアドレナリンが好きではなかった。彼女が戦場に赴いたのは、証言し、犠牲者の声を拾いあげ、彼らの苦悩に言葉を与えるためだった。「わたしは詩人のようなもの。全力で生き、目に映るものを書きとめるの」。母はわたしにそう語っていた。

2002年10月23日に40人以上のチェチェン人武装テロリスト集団が、ミュージカルを上映中のドゥブロフカ劇場に侵入し、役者やオーケストラ団員ら1000人近くを人質にとって立てこもりチェチェンの独立を求めた事件では、アンナ・ポリトコフスカヤは交渉の仲介という重い任を引き受けたが、彼女の意に反して3日後にロシア治安部隊が致死性のガスを劇場内に流して突入し、多くの死者を出して幕が閉じられた。その一部始終を、娘である著者はこの本に綴っている。国とテロリストの緊迫した緊急事態において母親が重大な役割を担い、生死の瀬戸際の現場で交渉に当たっている……家族にとって、どれほどの緊張と恐怖だったことだろうか。

その後もアンナ・ポリトコフスカヤはチェチェン取材を続けただけでなく、2004年9月にテロリスト集団がチェチェンに近い北オセチアの学校を占拠したときも、現場に駆けつけようと飛行機に乗った。しかし機内で毒を盛られて重篤な状態となり、一命をとりとめるも中毒による内分泌系と肝臓の異常が慢性化し、インスリン非依存型糖尿病も発症し、突然血糖値が低下する体質になってしまったという。許しがたい残虐な仕打ちとしか言いようがない。

同じく「ノーヴァヤ・ガゼータ」紙のジャーナリストだったユーリー・シチェコチーヒンが2003年7月に暗殺されてからは、「どうせ殺されるなら、毒を盛った優雅なバラの花束をもらうとか、せめて女らしい死に方がいいわね、などと冗談めかして言うことさえあった」と著者は記している。常々、いわゆる「普通」の最期を迎えることはないだろうとも著者や兄に語っていたそうで、覚悟を決めて真実を書くことを信条としていたのがわかるが、そんな非情な社会は絶対にあってはならない。だけど、ロシアでは人権が平気で踏み躙られる独裁的な社会状況が続いているのである。

この本には、生前の母アンナや父アレクサンドル、著者ヴェーラや兄イリヤーの写真がところどころに織り込まれ、家族の日常シーンが偲ばれる。料理、飼い犬、日々の会話、ささやかな幸せのディテールがそこにある。常に危険と背合わせにあったジャーナリストにも、家族との日常があった。緊張を強いられる仕事に向き合いながらも、温もりのある愛おしい日々があった。読みながら、彼女からそれらが奪われた理不尽さに、強い憤りを感じずにはいられなかった。

ロシアには近年、ほかにも強引に命を奪われた人々がいる。政権批判を続けていたアレクセイ・ナワリヌイが2024年2月に北極圏で獄死したニュースは記憶に新しい。2023年6月には、ロシア軍を批判して武装反乱を起こしたプリゴジンが乗っていたプライベートジェット機が墜落した衝撃的な事件も起きていた。歯止めがかからずに、あってはならないことが起き続けている。いったい、どうしたらいいのだろうか。

著者は、2022年2月24日から11月27日までのあいだに、約2万人のロシア人が平和的なデモを行って拘束され、その後も増えつづけていることを私たちに教えてくれる。

欧米には、ロシア人はなぜ当局のすることをすべておとなしく受けいれるのか理解できないという人が大勢いる。ロシア市民は、抗議もしなければ街頭デモもおこなわない。国民の大半が、貧困状態を生きのびるのに精いっぱいなうえ、ストライキやデモに参加した者に対する罰則があまりに重くなったため、危険を冒そうという人がわずかしかいないのだ。ヨーロッパでは、平和的な「抗議活動」を終えたあと、それぞれが安心して帰宅の途につくことができる。ところがロシアでは、デモ参加者の大半が警察署に連行されることになる。「単なる」罰金(いずれにしても高額な)で許されることはほとんどなく、15日間拘束される。それだけではすまされず、刑事裁判にかけられる可能性も少なからずあるのだ。(中略)
 当局の弾圧にもかかわらず、プラカード活動はやまなかった。それどころか、現行の法規をかいくぐるために、戦術に磨きがかけられた。それまでは「戦争反対」と書いていたプラカードを白紙にするか、あるいはプラカード自体を持たなくなったのだ。大勢の人が、実際には何も持たずに、あたかも手に何かを持っているような身振りで街頭に立った。それでもなお、まるで何かの法律に違反したかのように逮捕されてしまうのだ。いったいどんな法律に違反していると言うのだろうか。(中略)学生のドミートリー・レズニコフは「*** *****!」とアスタリスクだけを記したプラカードを掲げたために、5万ルーブル(過去の平均的な為替レートでは日本円にしておよそ9万円)の罰金を科せられた。また、2022年3月13日、「戦争反対」の代わりに「ふたつの単語」と書いたプラカードを手にしていたマリーナ・ドミトリエワは2万リーブルの罰金を科せられた。


そんなロシアの状況を、私は他人事とは思えない。
日本では、弱い者いじめとしか思えない法律改正や重税を次々と突きつけてくる政府に対して抗議もしなければ街頭デモもおこなわない人が大半だ。多く日本人は、「貧困状態を生きのびるのに精いっぱい」というロシア人と同じ境遇にある。

そして、ストライキやデモに対する罰則はロシアのようにはないけれど、権力者に対してアクションを起こす人に対する冷たい無関心がはびこり、同調圧力による自己規制も働きがちだ。政府や経済界に不利な情報を取り上げないマスメディアの姿勢も気になる。ロシアのような不条理な独裁社会に向かってはいないだろうか、今のうちに歯止めをかけなければならないと思う。どうやって?と問うならば、やはり市民が声を上げること、プラカードを掲げること、デモをすることなのだと私は思います。