父の旅立ち

日々の味わい

4月末、父が旅立ちました。

左脚の蜂窩織炎(ほうかしきえん)が原因で高熱を出して衰弱し、少し持ち直し、また衰弱し、少し持ち直し、さらに衰弱……を繰り返し、振り返れば1ヶ月近くかけて、からだの働きを閉じるための調整をゆっくりとしながら、しかるべき時に、そうあるべき姿で、命のゼロ地点に到達したように見えた。

95歳8ヶ月、あっぱれな大往生だった。

発熱から4日目に行われた相談員さん、看護師さん、担当医さんとの面談で示されたのは次の三択だった。
①施設での看取り
②病院へ搬送
③自宅での看取り

①の「施設での看取り」であれば、同じ施設の別階でお世話になっている母と最期まで会わせてあげられる。父母が同じ施設に入れるよう、父の自宅介護に限界を感じつつ姉と力を合わせて入所申請から1年半待ったのは、できるだけ二人を会わせてあげるためだった。ケアの質がとても良い施設でもあるし、看取りを行っていることも知っての入所だった。
②の「病院へ搬送」に関しては、人の最期に病院の「治療」が最善とは限らないケースがあることを私は何冊かの本で学んでいて、この数ヶ月、面会に来てもいつも眠ってばかりの父の場合はそれにあたると思えた。
③の「自宅での看取り」は、3年9ヶ月の自宅介護を思えば、物理的にも精神的にも私と姉に背負いきれないのは自明だった。
そもそもや③を選べば、父と母を会わせてあげられなくなるという重大な欠落が生じてしまうわけで、「施設での看取りが最善と結論づけるのに私たちに迷いはなかった。

以後、施設での面会時間の制限が解かれた。「早朝でも夜中でも、いつでもお部屋にいていただいて大丈夫です」と言ってくださり、いつもは共有スペースに限られていた母との面会も、父の部屋でできるようになった。
ソファベッドを父の部屋に置いてくれて、望めば簡易ベッドも持ってきてくれるとのことだったが、さすがに熟睡できそうにないし、看護師さんから「長くなるかもしれないので、ご家族もしっかり休んでくださいね」との助言もあり、夜は帰宅してちゃんとご飯を食べて睡眠をとることにした。

父は、もう食事がとれなくなっていて、それから1ヶ月弱のあいだに口にできたのは、アイスクリームや、果汁やお茶などの水分だけだった。唯一、妹が差し入れてくれたレトルトの「噛まずに食べられるすき焼き」を2回、奇跡的に食べてくれたことがあった。そして、相談員さんが特別に部屋でコリコリと豆を挽いて淹れてくださったコーヒー(とろみ剤でむせないようにして)も何回も味わわせていただいた(私たちもご相伴にあずかった)。とはいえ、いずれも少量なのがさらにどんどん減っていき、最後の1週間は水をほんの数匙飲むだけで、亡くなる2日前にはそれも受け付けなくなっていた。

そんなお看取りの日々、私たちが来ると父が反応したり水分摂取できたりするのを見て、介護士さんも看護師さんも「ご家族はやっぱり違いますね」と褒めてくださった。でも、オムツ交換をはじめ体の清拭、パジャマの着替え、バイタルチェックなどをきめ細やかにしてくださっているおかげで、私たちは父のお世話のほんの上澄みだけに集中できたのだ。もし私たちが全てを負っていたら、とうていそうはいかなかっただろう。自宅介護の年月を振り返れば、イライラや疲労が勝ってやさしい気持ちで接してなどいられなかっただろうことは想像に難くない
とろみのついた水を匙ですくってタイミングを見計らって流しこんで「飲んだ!」「飲まない」と一喜一憂したり、母を連れてきて手と手を握らせてあげたり、ヒゲを剃って保湿剤を塗ったり、何をしても父が眠ったままのときは横でウクレレをつまびきながら父が好きだった曲を歌ったりして穏やかに父に寄り添って過ごせたのは、施設のスタッフのみなさんのおかげだ。

この1ヶ月弱の日々を、私は思いがけないギフトのように感じている。綿々と続く人々の生死の営みを通して、介護や医療の現場での経験と学びがあり、人が最期まで尊厳をもって生き切るとはどんなことかを多くの人たちが考え・感じ、それを活かして現在実践されている「お看取り」があり、そのひとつの表れが父の最後の日々だったと思う。振り返ると、最後の浣腸やシャワーも実にタイミング良く実行してくださっていた。こうした現実のケアの一つひとつのノウハウの総体が、無形で見えにくい人の尊厳というものを大切にしていると感じた。実際に父のお世話をしてくださったスタッフのみなさんはもちろん、そこにつながる人々と社会にも感謝して受け取るべきギフトだと思っている。

発熱して5日目に、こんなこともあった。
就職したての姪っ子と、札幌在住の妹と、都内に住む従姉妹も駆けつけてくれて、母も一緒に父の部屋に集ったときのことだ。その日やっと、昼前から熱が下がった、そんなタイミングだった。
みんなに囲まれた父は、それまで数ヶ月になかったほど覚醒して言葉を発した。母に向かって「ママにはたくさん苦労をかけたな」と言い、母は「そんなことないわ、苦労なんかしてないわ」と答え、「ママ、ありがとう」「パパ、ありがとう」と感謝の気持ちを伝え合った。父は「いい人生だった」ともはっきりと告げた。まるでドラマのワンシーンのようだった。

そのとき以来、もう父がいつ亡くなっても悔いはないと私は確信できて、肩の荷が降りたように感じた。その後、夜中に連絡が来て駆けつけたことが2回あったし、昼間に「もうすぐ?」と感じたときもあったけれど、自分でも驚くほど腹が据わって動揺しなくなった。
思えば私は、札幌から父を連れてきて同居するようになったときから、「ちゃんと死なせてあげなければ」と、どこか緊張しつづけていた。病気や怪我の対応を調べて備えたり、万が一入院して管に繋がれて「死ねなくなる状況」をいかに回避できるものかと勝手に焦燥感を抱いたりもしていた。
父が不機嫌に「どうせ俺は死ぬんだ」などと言おうものなら、「大丈夫、今、たっぷりご飯食べたでしょ。飲んだり食べたりできなくなって2週間は生きれるんだって。だから、まだ死なない」と説明して、「またお前はそんなわかったようなことばかり言う」と父をさらに不機嫌にさせながらも、「そうだ、まだ死なない」と自分を安心させたこともあった。
「死ぬのが怖い?」と父に聞くと「当たり前だ」と答えるので、「大丈夫、怖がる必要はないよ。死ぬときは、気持ちよくなる物質が脳内に出て、痛くも苦しくもないんだって」と本で読みかじった知識をひけらかして、「またお前はそんなわかったようなことばかり言う」と父をイラつかせたこともあった。

そして父は、まさに飲まず食わずの日々を経て穏やかに死んでいく姿を私に見せてくれた。「パパ、ほら、そのとおりだったでしょ?」と問いたい気もするし、父が「ほら、お前に見せてやったんだ」と誇らしげに笑っているようにも思う。

特に印象深かったのは、最後の数日、表情がどんどん穏やかになっていったことだった。ただ一つだけ辛そうだったのは、背中や頭皮を自分で掻こうと何度も手を持ち上げるのだけれど、途中で力が抜けてストンと手が落ちてしまって掻けないことだった。きっと、とても痒かったのだと想像する。自宅にいた頃から、乾燥肌でよく痒がっていた。とはいえ、ほとんどの時間、父は気持ちよさそうに眠りつづけていた。痛かったり苦しかったりしたら、あんなに気持ちよさそうには眠れないだろうと思う。

最期の日、夜中の2時前に施設から「無呼吸が長くなっている」と電話連絡を受けた私と姉は、自転車で駆けつけてずっと父に付き添った。朝が来て、午前中に女性スタッフさん二人が共同作業で手際よくオムツ交換と清拭をしてパジャマを着替えさせてくれると、父は本当に気持ちよさそうにニッコリとして、さらに時の経過とともに顔に穏やかさが増していった。「仏様みたい」とは口にしなかったけれど、「穏やかだねー」と姉と感嘆したほど福々しく清々しい表情だった。

昼前から、痰が絡む音が呼吸に伴って響くようになった。看護師さんが「苦しそうに聞こえるかもしれませんが、実際は苦しくないそうですよ」と教えてくれたし、表情は変わらずいたって穏やかで苦しそうには全然見えなかった。
妹が合流して「少し休んできたら」と勧めてくれたので、ひとまず昼食を買ってこようと姉と外に出た。近くのコンビニを目指すつもりだったけれど、妹がいてくれているし、施設と自宅のちょうど中間にある蕎麦屋さんに行くことにした。在宅介護中、母の面会に行く道すがら父も一緒に何回もご飯を食べたことのある店だ。「あのとき、おかしかったよね!」という思い出がいくつもある店でもある。
後ろの席で、おそらく少し耳の聞こえづらい高齢のお母さんらしき人に「蕎麦にする?うどんにする?」と大きな声で尋ねた女性がいて、父が「両方!」と即答したことがあった。
エプロンを忘れて、食べこぼしで服を汚さないようにカルディのショッピングバッグを父の首に結えたこともあった。
「そんなこともあったよねー」とエピソードの数々に思い出し笑いしながら、私たちは「日替わり定食」をおいしくいただいた。

途中、スーパーに寄って母のためにヨーグルトを買おうとしていたところに、妹が泣きながら姉に電話をしてきた。
「すぐに戻ってきて!」という声が姉のスマホから漏れ聞こえ、そのときが来てしまったことを悟った。
自転車を飛ばして戻ると、父の体はまだ温もりを残していたけれど、息はしていなかった。妹に聞くと、「ふーっ」と息を吐き、いくら待ってももう息を吸わなかったのだという。まさに、静かに息を引き取ったのであった。

札幌在住の妹は、父の看取りに入ってからは都内の娘の部屋から施設に通っていた。所沢への往復に時間がかかることもあって、彼女が不在のあいだに父が息を引き取ることを心配し、帰るときには涙ながらに不安がっていた。だから、妹がそばにいるときに父が旅立ったのは、父の妹への思いやりだったに違いない。
私はといえば、そのときに立ち会えてもそうじゃなくても受け入れる覚悟ができていたし、姉もそう言っていた。だから、「パパとの思い出を話しながら楽しくランチしてるときでよかったんだよね」と私と姉は全く悔いなく父の最期を受けとめた。

その日、担当医さんはクリニックの受診後に会議があり、死亡診断書を書きに施設にいらしたのは夜7時を過ぎていた。亡くなった時間を医師に尋ねられた私たちは、姉のスマホの着信履歴の時刻から推定して「13時30分」と伝えた。

翌日、姉が自室から「ねえねえ」とちょっと驚いた様子で呼ぶので行ってみると、お財布から取り出したレシートを手に「打刻、13時30分よ」と言うのである。なんとなんと……。
面会に行くたびに父は「何か、うまいものでも食いに行くか」と誘ってくれたものだった。
私たちはなんだか嬉しくなって、「パパ、ごちそうさま!」と声がぴたりと揃った。

その日の定食は「豚肉の野菜巻きカツ」でした。ごちそうさま🙏