父が毎日通っているデイサービス施設では、水曜は絵画、木曜は習字がある。最近はサボりがちだけれど参加すれば必ず作品を持ち帰るので、デイ通いが3年半を超える今では我が家の食堂やリビングの壁は父の作品で埋め尽くされている。施設長さん考案の「ちぎり絵」のカレンダーは2か月に一度、いつも趣のある絵柄を私たち姉妹も楽しみにしている。
そして先だって、1月に持ち帰ってきたのが「繭玉飾り」。
かつて養蚕が盛んだった所沢では、繭に見立てた団子をコナラ、カシワ、クワなどの枝に刺し、蚕がたくさん育つよう願って小正月に飾る習慣があったとか。父の繭は団子ではなく、白と薄桃色の紙粘土。
父を家まで送ってくださったスタッフさんから手渡され、その微笑ましい佇まいに目を引かれ、引かれた目が短冊に吸い寄せられ、読みづらい父の文字を判読して、びっくり。
「目標を持つシアワセ、成し遂げるアリガタサ、楽しみたい。」
たぶん、そう書いてある。
思わず、「えっ?」とのけぞり、父の言葉が私の頭上をかすめて後ろに飛び去るような気がしたほど驚いた。なにしろ認知症が進んでいる父は、日々、妄想妄言があふれ出てくるわ、着替えや歯磨きや髭剃りの手順も分からないわ、足元はヨロヨロでトイレ介助も必須。そんな状態に至るまでの推移をかたわらで見守ってきた私には、まさかの「目標」とか「成し遂げる」なのであった。しかも、しばしば不機嫌を爆発させたり私を泥棒呼ばわりしたりする人が、「シアワセ、アリガタサ、楽しみたい」と。
いや、念のために言っておくと、私は父を揶揄したいのではない。むしろ、畏敬の思いが湧くような驚きだったのだ。
できなくなることがどんどん増え、自分がどこにいるのか分からないことが多くなり、ときに私や姉が誰なのかも判別できなくなる父の脳内では、おそらく認知系統の地図みたいなものだとか記憶の収納場所だとかが欠けたり傷ついたりしているのだろうけれど、それでもなお、どこかに確固とした父の思いとか考えは存在していて、短冊を書く瞬間に奔り出たのだとしたら、それはミラクルではないか。実際、「これ、パパが書いたの?」と聞いても「覚えがない。なんて書いてあるんだ?」と本人は判読できないのであった。短冊は、まさにその瞬間の奇跡なのだ。
後日、12月に受けた介護度認定調査の結果がなぜか「要介護4」から「要介護3」に下がったとの変更通知が届いた。介助の手間は一年前よりも増えているので、私たちには謎の結果だった。おそらく介護度は「絶対評価」ではなく「相対評価」なのではないだろうか。介護サービスを必要とする人が地域に数多くいれば、おのずと「偏差値」が低くなる。わからんが。
それはさておくとして、介護度の変更にともなって「担当者会議」が開かれる運びとなり、父が利用している介護サービス事業者の方々とケアマネさんの4人が自宅に集まってくださった。その場で、ケアマネさんが冒頭、父に「安田さん、最近、どうですか? 何かお困りのことはありますか?」と尋ねた。すると父はこう答えたのだった。
「いやぁ、年をとるのは初めてのことですから、何がなにやら分からないのですよ」。
「ほお!」……そこにいた一同に納得感が伝播した。
なるほど、父はそんなふうに感じていたのか。
しばしば暴言を吐いたり不機嫌になったりして私たちの手を焼かせる父は、ときに何がなにやら分からない存在なのだけれど、当の本人が「何がなにやら分からない」のだとは。
あらためて言葉にされると説得力があるし、我が身に引き寄せてみれば自分の体調も行動も「何がなにやら分からない」の部類だと思えてくる。
日々、人生の最先端の自分に戸惑い、理解しようともがきながらも、「目標を持つシアワセ、成し遂げるアリガタサ、楽しみたい。」と私も言えるようになりたいものだ。
日々、人生の最先端。94歳の父も、還暦の私も。
