94歳の認知症の父が、何ものかに変容しつつあるような

気になること

最近、94歳の認知症の父が、何ものかに変容しつつあるように感じることがある。
はて、どんなふうに何に変りつつあるのだろうか?

一緒に暮らしている私と姉の精神衛生上すこぶる良い変化としては、以前より不機嫌なときが少なくなったことが挙げられる。「機嫌」は定量的に測れないので漠然と「減った」としか言えないけれど、かなり顕著だ。なんとなくの感覚で表すとしたら[不機嫌:ご機嫌]の比率が8:2 → 4:6くらいの変化だろうか。
「お前たちがオレの金を盗った」「警察に行くぞ」などと言いつのってくる「ものとられ妄想」は、頻度を記録していないので数では示せないけれど激減のレベルだ。
「小」でもトイレの便器に座って用を足すのを嫌がらなくなり、「180度回転して、もう少し後ろに下がって座って」などという私たちの指示に素直に従ってくれることが多くなったのも、好ましい変化だ(とはいえ、まだ「やめろ!」と怒鳴ってくることはある)。

不機嫌が減るのに伴ってご機嫌なときが増えているのは、とても良い傾向だ。
トイレ介助や髭剃りのあとに「ありがとう」の言葉を聞くことも増えた。自分一人でできなくなったことを自覚し、どこかであきらめたのかもしれない。
そして夕飯の支度をほぼ毎日担当している私にとってめちゃ嬉しいのは、「うまいな」と味わって食べてくれるようになったことだ。以前は「まあまあだな」という、つまらない反応ばかりだったのだが、夏の暑さが過ぎた昨年秋頃からは、好物の天ぷらや牛丼などはもちろん、残しがちだった味噌汁も「うまい!」。寒い季節の今では、熱々のココアやミルクコーヒーなどをデザートのお菓子に添えて出そうものなら「うんめぇ〜!」と絶賛だ。

そして、なんだか「かわいいな」と感じさせられることもしばしばある。
デイサービスからの帰宅時に玄関前で女性スタッフから「今日はここでお別れですね」と言われて「やだ、お別れは嫌だ!」と真剣に抗うなんぞ、就学前の子どもみたいだ。
トイレに間に合ってパッドが濡れていないのを見た私が「すごーい、大成功!」と手を叩くと、一緒に嬉しそうに「やったー!」と手を叩いたりもする。
先週の水曜に4泊5日のショートステイから帰宅したときは、何をどうしたものか「ママが危篤で心配だ」と意気消沈していてお泊まり中にシクシク泣いてしまったという。「ママは施設で元気よ、おととい面会してきたわよ」と話すと一気に表情が明るくなって「おぉ、そうかそうか、それはよかった、よかったなぁ」と小躍りするので、思わず「よかったよかった!」とハグしてあげたくらいだ。
いやもう、ほんと、年をとると子どもにかえると言われるけれど、そうなのかも。

しかし、「何ものかに変容してるみたい」と感じるのは、そういう「子どもに戻ってる感」とはちょっと違う。
例えば、ほんの一瞬なんだけれど、何かしようとして何をするのか忘れてしまったようでリビングの真ん中でボーッと立ちすくんでいるときなんかがソレで、なんというか、そこにいるようで、いなくなっているみたいな感じ。ふわっと、ただそこに存在しているようでありながら実はそこにいない、みたいな雰囲気。ヨロヨロしていて不安定な割には、その瞬間はめちゃ安定してる。
あくまで私の主観でしかないのだけれど、すごく不思議な有様なのだ。
そう……もしかしたら、こういう状態を「無我の境地」っていうのかしら。

もちろん、そういう状態は稀で、普段はあいかわらず「財布がない」「時計がない」「メガネがない」「ここはどこだ」「明日は飛行機に乗るのか」「兄貴は来るのか」(注:父の姉兄はみな鬼籍に入っている)……などと猜疑心に満ちた目つきですり寄ってきて、見れば、さっき髪の毛を整えてあげたはずなのに頭を掻きむしったらしく白髪が逆立っていたり、孫の手を使って背中を掻いたのかウエストからシャツがはみ出ていたり、部屋は十分暖かいのに鼻水を垂らしていたりして、無我の境地の仙人というより、むしろ妖怪みたいなのだが😅

認知症の父を札幌から連れてきて、姉と私と3人の生活が始まったのが2021年8月末。以来3年半、このブログに折々に父の様子を綴ってきた。当初を振り返ると、ずいぶん遠くへ来たものだと思う。ときどき読み返して「まだアレもコレもできてたんだね」と姉と一緒にしみじみしている。ご機嫌なときの父に接するのは楽しくはあるが、時間管理はもとよりトイレも着替えも歯磨きや髭剃りもほぼ全てに手を貸さなければならなくなった今、負担は重くなる一方だ。夜のトイレに何度も付き合ってくれている姉の体調も心配だ。

先日、高校時代の部活の同窓会で、晩年のお母様と同居して数ヶ月前に見送ったという友人が「若い頃は気にしたことがなかったけど、年をとった親と一緒に暮らしてはじめて親の人柄に触れられた気がして良かった」と話してくれて、我が身に照らして心にしみた。確かに、私にとって父はそれほど近しい存在ではなかったし、父から疎まれていると感じるあまりに父を理解しようなどと思ったことはなかったかも。
ただ、こうして一緒に暮らしていて父の人柄がわかる気がするときもあるのだけれど、認知症が徐々に進化していく今、そもそも元来の父の人柄なのか別物に変化しているのか正直わからない。
とりあえず、その変容を傍らで見守るのが、今の私の務めなのかなと受け止めています。