このところ、ものすごい雷が鳴り響く日が多い。
ピカッ!ゴロゴロ!ドドーン!!と、それはそれは派手に繰り返す。午後だったり、夕方だったり、夜中だったり、豪雨をともなうときもあるのだけど、そのたびに、「あー、マリアがいたら大騒ぎだったろうな」と、ちょっとホッとしながら懐かしむ。
雷が鳴るといつも、マリアは窓際に勢いよく駆けつけて、空に向かって果敢に吠えつづけた。ほらね、そうそう、こんな感じだったなぁ。facebookが、ちょうど10年前のマリアの勇姿を掘り起こしてくれたよ。
あはは、4年前のブログにも、出てた、出てたよ、雷に吠えるマリア。マリアの唾が散って、窓ガラスがひどく汚れたっけ。
夜中に鳴ろうものなら、もう大変!
雷よりもマリアが私の睡眠を妨害するので、睡魔にひきづられながら必死にマリアを羽交締めにして黙らせようとするも、逃げようとする、逃すまいとする、逃げられる、捕まえる、逃げようとする、逃すまいとする、逃げられる、捕まえる……という深夜のレスリングが繰り返され、かなりしんどかったなぁ。
悲しいかな今はマリアがいないので、雷にひとたび起こされても私はすぐに夢の中に戻れる。
そう、半年経って変わったことといえば、他にもいろいろある。
例えば、掃除の回数が極端に減った。あれほど溜まったり浮遊していた「フワちゃん」がいなくなったからだ。フワちゃんとは、言わずもがな毛玉とほこりが絡まってできたフワフワだ。体重2.5kgほどの小さなマリアの抜け毛が、なんと多かったことか。いなくなって初めて、驚くほどの生産性の高さだったと知る。マリアがいた頃は、少なくとも週に2回は掃きそうじをしていたけど、今では2週間に1回、いや、それよりも間が空くときもあるほどズボラでいられる。
それから、朝の散歩をしなくなった。毎年、今の季節は起きてすぐ、地面が熱々になる前の6時台にはマリアと外を歩いていた。晩年は、私の歩数で数百歩程度になって、亡くなる前の1ヶ月は100歩もいかなくなっていたけれど、それでも毎朝欠かさなかった。運動不足になるから一人でも歩けばいいと思いながらも、犬の散歩が多い時間帯はなんとなく気が引ける。
あと、ひきわり納豆を買わなくなった。マリアには、朝はカリカリ+ヨーグルト、夜はカリカリ+ひきわり納豆をあげていて、切らさないようにしていた。先日、生活クラブのデポーで消費期限が近づいて5%引きになっていて、久しぶりに買ってきたらおいしいかった。マリアがいなくても、また買おうと思った。
ほかには……
朝、マリアが起こしてくれなくても父が素直に起きるようになった。
マリアが食べたら困る食べものや薬を父がこぼしても、慌てなくてよくなった(その代わり、ずいぶん食べこぼしが目立つようになって、マリアがどんだけ食べていたか驚く)。
マリアが吠えて家族を起こしてしまう心配がないから、早朝に畑に行きやすくなった。
認知症の父をショートステイに託すことができれば遠方出張ができるようになった。
などなど、私にも家族にも行動に変化がある。
そんな、何気ない行動様式の変化に気づくたびに、ああ、マリアはいなくなっちゃったんだなぁと懐かしくなる。
うちは、食堂とリビングと廊下とキッチンをぐるりと周回できる配置になっていて、空気の流れによってリビングと廊下の境の扉がときにカタッと開くことがある。むろん、ドアノブがしっかりはまっていない場合なのだけど、マリアがいたときは前足でチョンと押して開けることもあって、「あら、ついさっきここにいたのに、ぐるっと回ってきたのね」と笑わせてくれた。今は誰もいないときに開くのは空気の流れのせいなのだけど、「あっ、マリア?」と思ってしまう。
半年経った今でも、ふと、そこここでマリアが待っていてくれているような気がすることがある。そして、ああ、マリアは私をすごく大切にしてくれていたんだなと思ったりする。私の気配に注意し、私の次の行動を読み、そっと寄り添ってくれていたんだな、マリアは。ありがとう、マリア。すごく懐かしいよ。