私のことを「奥さん」なんて呼ばないで

気になること

先々週の水曜日、91歳の父がデイサービスに行っているときに、てんかんのような発作を40秒ほど起こしたというので、翌日、いつもお世話になっている近所のMクリニックに連れて行ったところ、「近くのS病院で脳のMRI検査を受けて、結果のデータをもらってきて再診するように」とのことで、翌日16時にS病院の予約をとってくれた。

S病院は自宅から1.5kmほど、父の車椅子を押して歩いても20分程度で行ける距離に位置する。住宅街を抜けて畑が広がるあたりをちょっと過ぎたところなので、なんのことはない、楽勝だと思っていたのだが、その日は梅雨の最中だったけど天気が良くなって最高気温が27度を超えた(35度前後の猛暑が続く昨日今日と比べれば屁でもなかったように思うが)。

自宅を出たのが15時半。道路の照り返しがきつく、道沿いには陰をつくってくれる木が全然なくて、歩いているうちにすごく暑くなって、病院に到着したとき私は汗だくになっていた。
しかも道路からS病院の入口までの10メートルほどのアプローチは、ちょっとした坂になっていて、車椅子をぐいぐいと押しながらその坂を上りきると、フーッ、フーッ、フーッ、息もかなりあがってしまった。

入口を入ると、外扉と内扉のあいだのスペースの右側に折りたたみ机が2つ並べられていて、その向こう側にいた初老の男性が「検温をお願いします」と、私たちが内扉を超えるのを阻んだ。

昨今、病院とか施設の入口には、スマホ大のカメラのような検温器が置いてあることが多い。だから私は左右に視線を振ってみたのだけれど、それらしきものは見当たらなかった。
とすると、その男性が非接触でおでこの温度を計るヤツを持って出てきてくれるのだろう。と、とっさにそう判断した私は、背負っていたリュックを肩から外し、検温後の受付での手続きに備えて父の健康保険証や診察券なんかを入れてあるポーチを取り出さんとした。
ところが、ないんである、そのポーチが。
この病院は初診なので、保険証は必須。なのに入ってない!

焦りまくって、すでに汗だくなうえに冷や汗まで出てきた私に向かって、さきほどの男性が普通の体温計を差し出して言った。
「奥さん、脇の下で体温、計ってください」と。

えっ?何?奥さん?脇の下で体温?
「私、それどころじゃないの、保険証が入ってるポーチがないの!」と心のなかはムンクの叫びだったけれど、「あなたがやってちょうだいよ!」と言えるほど押しの強い性格じゃないもんで、仕方なくリュックが肩からずり落ちたまま三歩前に進み、体温計を受け取って父の脇の下に挿し込み、ふたたびリュックのなかをぐちゃぐちゃと探った。

が、しかし。
ないんである、いくら探しても。
出がけに、あんなに中身をあらためたポーチが。
もー、私ったら。

ピピピッという終了音が聞こえ、父の体温に問題がないことが証明された(そのあとで私も体温を計ったのだろうか? とんと記憶にない)。

それから車椅子を押して内扉を抜けて受付に進み、私は保険証を忘れたことを伝えた。
受付の中年男性は「初診なので健康保険証が必要なのです。ご自宅まで、取りに帰れますか?」と折り目正しい態度で私に尋ねてきた。
「取りに帰れない距離ではないですが、この暑さなので……」と言い淀んだ私だったが、ダメ元で「自転車を貸していただけますか?」と聞いてみた。
が、返ってきたのは「お貸しできる自転車はあいにくないですねぇ」という、すげない答えだった。

むむむ……と天をあおいだ私の左側から、天使の声が聞こえた。

「Mクリニックからのご紹介でしたよね。保険証をファックスしていただけるか、電話でお尋ねしてみてはどうですか?」というグッドなソリューションを提示してくれたのは、医師か看護師さんか検査技師さんか定かではないが白衣姿の女性であった。

おおお……名案じゃないの、いいじゃないの、いいじゃないの! 貴重なご意見、さっそく採用させていただきますよ。
すぐにスマホでMクリニックに電話をかけたところ、ご厚意に甘えることができた。ああ、この炎天下での急ぎ足の往復3kmは、私をノックアウトしていたに違いない。ありがたやありがたや。
というわけで、なんとか事なきを得て、父は検査室へと送り込まれた。

検査室前のエアコンの効いた廊下で椅子に座って待つことになった私は、水筒をリュックから取り出して水をグビグビと飲んで一息ついた。フーッ。

そしてその瞬間、ふと蘇ってきたのである。
そう、あの入口の検温のときの「奥さん」という呼びかけが。
えーっ? アレ、なんだったの?
すごい遅れをとって、大きな違和感が私の中で膨れ上がった。

そういえば、その数日前、公民館で囲碁クラブに参加していた父を迎えにいった姉が帰ってきて、いたく憤慨していたっけ。
「公民館の入口で待っててね」と言いふくめてあったにもかかわらず父は一人で外に出て、家の方向がわからなくなってしまい、偶然通りかかった数人の人に囲まれていた。「そのなかの若い女性が、私に向かって『奥さん』って言ったのよ! 私、91歳のおじいちゃんの妻に見える?」と姉はいたく憤慨していたのだった。

そのとき、私は姉に「その人、目が悪かったんじゃない? よく見えてなかったんだよ、きっと」なんて軽い気持ちで答えたのだったが、思えば、他人事だった。ほんと、他人事だったの、ごめんなさい、姉よ。

でもね、いざ自分事になったら一挙にメラメラ〜ッと憤りが湧き上がってきちゃって。
なになに〜? ひどくない? なにさ、「奥さん」だって?
やっと姉の憤慨が理解できたわ。うん、ありえない、絶対ない、「奥さん」だなんて。

とはいえ、あの男性が、私のことを父の妻だと思って「奥さん」と呼んだのではない可能性はある。だって、高齢者の車椅子を押している人が必ずしもその人の配偶者とは限らないことは誰でもわかっているし、ましてや病院関係者なんだもの。もちろん配偶者かもしれないし娘かもしれないけれど、ほかの親戚かもしれないし、介護職の人かもしれない。
とすると、あの男性はむしろ女性に対する丁寧な呼称として「奥さん」という呼び方を採用していただけなのかも。フランス語の「マダム」とか「マドモアゼル」みたいに。

だけど、そう考えてみてもやっぱり「奥さん」って呼ばれるの、私には強烈な違和感があるの。こちとら、婚姻関係は途中で解消して一人身であることに少なからずの自負がある。「奥さん」とか「家内」とか「お嫁さん」とか、誰からも呼ばれる筋合いは今さらないってもんだ。そもそもね、今日日、女性だって家の奥になんかにとどまってやしないの。いっそ「表さん」とか「手前さん」とか「外さん」とでも呼んでみろってもんだ。

ってなわけで、ほんと、私のことを「奥さん」って呼ばないで!って世界の中心で叫びたい気分。

そういえば、このあいだ玄関のピンポンが鳴って出ていったら、「奥さん、お宅の屋根、右側の板金が外れてますよ」って言ってきた屋根修理業者らしき男もいたっけ。
その前にはやっぱり「お母さん、お宅の屋根、左側の板金が外れてますよ」って言ってきた若い男もいた。
いずれも私は「馴染みの工務店さんに頼みますんで」ときっぱり断った。屋根修理の訪問業者によるトラブルが頻発していて、地域の消費生活センターや警察からの警告が市報や市のメールでも届いてるんだから、そんな手口にはひっかからないわよ。
それに、そもそも「奥さん」だの「お母さん」だのと呼びかけてくるヤツらとは、いっさい付き合いませんから、私。