自分が介護されるときのことを想像して、親の介護と向き合う

気になること

羽成幸子著『介護の達人』(文春文庫/2002年7月発行)を読んだ。

認知症が進行中の高齢の父と同居するようになってもうすぐ半年。
もやもやイライラしたり、帯状疱疹が出てしまって自分の体力気力の限界を思い知ったり……そんな状況なので、介護や認知症について参考になりそうな本があれば読みあさっている。
で、先だって読んだ『働くアンナの一人っ子介護』で紹介されていたこの本も手に取ってみたのだった。

著者は、19歳のときから49歳までの30年間に、祖父、父、祖母、母、義母の5人の介護を経験したというツワモノ。この本では、6年余にわたる義母キクさんの同居介護の経験が中心に語られている。
そのエピソードたるや、すごい。

浣腸後にキクさんがオナラをしてウンチを顔に浴びたけど、「出てよかったね」とニコニコ対応できた。
ポータブルトイレでオシッコする音やオナラが隣の部屋から食事中に聞こえてきても、「オシッコは小川のせせらぎだと思いなさい」「オナラはカエルが池に飛び込んだ音だと思いなさい」と子どもたちに言い聞かせていた。
介護中にも細切れ時間を使い、大学の通信教育で教育学を学びつづけたうえに、薙刀の稽古、PTAの役員、リサイクル活動に励み、シナリオ教室にも通い、「介護と自分の人生は別のモノ」と割り切るようにしていた。
etc.etc.

読めば感服。「達人」の域とはこれほどか!と圧倒された。

まずは基本的な姿勢を正しておくことが大切だと達人は説く。
介護にも介護をしていくうえでの精神的な支えである介護道という道がある。「どうして私が?」「どうして夫は手伝ってくれない?」「どうして夫の兄弟は知らんぷり?」etc.といった落とし穴にはまると疲れ果てて身動きできなくなるから、できるだけ道の幅を広くしていくのが肝要だ。つまり「私の人生の主人公は私自身。介護は人生の一部にすぎない」という考え方に切り替え、介護以外の自分の時間を確保していくのである。映画館に映画を観に行く、お茶でもお花でも稽古ごとに熱中する、毎日喫茶店で一杯コーヒーを飲むなど、なんでもいい。そうして「介護道」の道幅を広くしていくよう努めていく。

「介護され上手を育てる」という視点も大切だ。
著者の気持ちがキクさんにうまく伝わらないのはキクさん自身が介護をした経験がないからだと気付いて、その視点に至ったという。
介護を経験していない老人は、人は簡単にポックリ死ねるわけではなく、下の世話を含めて介護してもらいながら死んでいくという現実を自分の問題として認識できていない。しかし、その現実を自分ごととして認識できなければ、人間的な質の高い介護の道は閉ざされてしまう。そう考えた著者は、自宅で介護を体験してもらえるよう、見学したい人を募ってキクさんに入浴サービスやオシメ交換のモデルになってもらったというのだから、達人のやることは、さすが並外れている。
私の父も介護の経験がない老人そのもので、この期に及んで他人事感が半端ない。歯磨きや上着の脱ぎ着や体操をめんどくさがり、「いいんだ、オレはもう死ぬんだ」などと斜に構える。そうなるとこちらも「ポックリ死ねるもんなら死んでみろ」なんて捨て台詞を投げつけたくなるのだが、著者のように家に体験者を招くほどのことはできなくても、「介護され上手を育てる」と上段に構えてみれば少しはイラつかずにすむかもしれない。

そして何より、頭に刻んでおこうと思ったのは、達人がその介護経験を煮詰めてすくい取ったかのごとくの「愛される老いの条件」だ。
◎介護してくれる人に「ありがとう」の一言が素直に言える
◎自分でできないことを自覚し、遠慮せずに援助を頼む「潔さ」
◎やってくれたことに対して「ほめる力」
◎「もう死ぬんだ」などと言わずに「頑張って生きる意志」を示せる

老いたときには、自分もかくあれという条件である。

しかし、その条件を満たさない老人がほとんどなわけで、そんな老人を介護することになったときには、心を広く持つのが肝要だ。
「こんな意地悪なおばあさんの介護をさせられるなんて、きっと私を鍛えるために神様が与えたチャンスだわ」と受け止めて乗り切れと達人は言う。なかなか高いハードルだが。

達人は、こんな風にも教えてくれる。
お年寄りは「汚い、臭い、かわいくない、の3Kだ」と言う人がいるけれど、介護を引き受けた以上、汚い、臭いは介護する人の責任。それを受け入れるためにはある程度の訓練と免疫性が必要で、介護者が自ら度量を広げるしかない。人間修行のいいチャンスなのだと潔く受け入れ、とにかく向き合ってみることが大切なのだ。
ポイントは、相手のにおい、生理的な音、汚れなどを無意識レベルまでもっていくこと。鼻水を垂らしているのを見て嫌だなと思うとき、その嫌だなと思う自分の嫌さとも向き合って、それを乗り越えて相手とかかわっていく。そうすれば「やがて、老人が痰を吐いている隣でも、トロロイモが平気で食べられるようになってきます」というのだから、達人あっぱれである。その域は、いまの私には遥か彼方だ。

読了後、しばし脱力した。
そして自らに言い聞かせた。「視点や姿勢は見習っても、達人と同じようにやろうなどとは決して思うまい」と。達人の域などめざそうものなら、私なんぞ、ぶったおれてしまうよ。

著者が介護されていたのは、2000年に介護保険制度がスタートするよりも前のこと。介護を引き受ける以外の選択肢がほとんどなかった時代のことだ。達人の域まで極めた方々も極められなかった方々も、ほんとうに大変だったろうと想像する。その延長線上に、介護保険制度があり介護サービスがあり、私の父は日中をデイサービスで過ごし、私たちは仕事を続けながら日々暮らし、達人の域をめざさない選択ができている。ありがたいことである。
とはいえ家でも介護施設でも、ケアする人はほとんど女性。アンペイドワークと低賃金労働が支えていて、なんだかモヤモヤしてしまいます。