91歳の父とパソコンとかテレビとか

日々の楽しみ

昨年2021年8月中旬に母が大腿骨を折って入院してしまい、姉と私が住む所沢の家に父を札幌から連れてきて半年近く経った。

私たちの家にはテレビがなく、札幌の自宅では多くの時間をテレビをつけたまま過ごしていた父がどんな反応を示すのか、当初はずいぶん気になった。でも、なければないでどうにかなるもので、テレビがないことに対して父が不満を示したことはこれまで一度もない。

というか父が手持ち無沙汰にしていると、姉が気をまわして「ニュース見る?」「旅番組見てみる?」と彼女のデスクトップPCで、見逃し配信やらオンデマンドやらで見せてあげていたので、欠乏症にならずに済んだのかもしれない。姉、やさしい。私は、父がボーッとしてても放っておく系の人間なんで。

ただ、父が姉のPCを独占していると、当然、彼女はPCが使えない。
いまや生活の中でPCが使えないととても不便だ。あれこれ調べたり、天気予報をチェックしたり、買い物したり、メールしたり、SNSをチェックしたり、ドラマや映画を観たり。そういった普段当たり前にやっていることができないと、多くのことが停滞する。不満が湧いてきて、もやもやイライラしてしまう。

そんな様子を見ていた私は、あるとき気がついた。「パパは自分のノートパソコンでテレビを見ればいいんじゃね?」と。
画面は若干小さくて見づらいとはいえ、見逃し配信だってオンデマンドだって見れちゃうもの。しかも父は見始めてしばらくすると船を漕ぐのだし。

ところが、それを提案したときの父の抵抗が半端なかった。
「そんなことをしたら、オレのパソコンで株の画面が見られなくなるだろう!テレビなんぞ見なくていい!」と完全拒否。
えーっ、何それ? ありえない。

しかもそのとき私たちは、北側の寒い書斎から南側の暖かな寝室にノートパソコンを移すことも提案してしまったものだから、父の頭はもっと混乱。
「そんなことしないでくれ。別の部屋ではパソコンがつながらない。しかもテレビなんかつなげたら株のチェックができなくなる!やめてくれ!」と激高。
もー、いいかげんにしてよぉ。

家の中はどこでもWi-FiとPCを繋げて普通にインターネットが使えるし、見逃し配信やオンデマンドでテレビ番組を見るのに使っても他のwebサイトを見る支障にはならないから大丈夫だと口をすっぱくして説明しても、がんとして受け付けない。
PCに関してはこれまでの手順ですら覚束なくなってきている父にとっては、置き場所や使用目的が変わるとなるとPCが機能しなくなる恐怖心が湧いてくるようだった。

すったもんだで拒絶感は強くなるばかり。シンプルなことなのに、父にとっては複雑怪奇だったのだ。こんな反応、まったく予期していなかったわ。
あまりの激しい抵抗に、ひとまず私たちは後へ引いた。

でも、姉はやさしかった(というか、自分のPCを使う自由を取り戻したいという気持ちが強かったのだろう)。ひとまず南側の寝室でPCが使えることに慣れてもらい、いつのまにか父はそこで見逃し配信やオンデマンドの番組を普通に見て過ごせるようになっていた(といっても番組を選んで再生するのは姉だけど)。
粘り勝ちだ。姉よ、ブラボー!ぱちぱちぱち!(←拍手)

PCといえば、札幌の病院に入院している母と月2回程度、zoom面会ができるように担当のスタッフさんが尽力してくださっている。おかげで、画面を通して母の姿が見られて、札幌の妹も加わって家族みんなで互いに顔を合わせて話す機会が持てるようになった。
「ママとビデオ電話で会えるよ〜」と言うと父も嬉しそうなのだが、画面に母と妹と私たちが映っていると、どれが母だかわからなくなることもあるし、面会したその夜には「オレはママとは話してないぞ」と忘れてしまっていることもある。

そんな父なのだが、先日、zoom面会できた日の夜、「今日はママの顔を見て話せたなあ」と夕食のテーブルでしみじみ話すので、「すごいすごい、覚えていられるときもあるんだなぁ」と内心ちょっと感動していたら、父が言葉を継いだ。

「あれは、つまりママが札幌でテレビ出演していたってことだな」

姉と顔を見合わせてプッと吹き出しそうになったけど、グッとこらえて「そうね〜、そういうことだね」と話を合わせた。
認知症についての本をあれこれ読みあさっている私は、本人のプライドがむき出しの状態になっていることを理解できるようになってきた。真面目に発言しているのに、笑っちゃいけない。違っていても、やたらと正しちゃいけない。
それにそもそも「テレビ出演」と言ったとて、まったく間違いというわけでもないのかも。カメラでキャッチされた映像が遠隔に届くって、まさにテレ-ビジョンだものね。