またまた札幌の老父母のもとへ

日々の楽しみ

6月10日から1週間、札幌の父母の元で過ごしてきた。
3月の私の滞在につづき、姉が4月末から5月頭に2週間ほど滞在し、今回は私。

姉と私が1〜1.5ヶ月の周期で訪れ、近所の妹をはじめケアマネさんやヘルパーさんたちの手の及ばない雑用をこなしつつ二人を見守ろうという心積もりで動いている。

前回のタスクは父の確定申告書作成だったが、今回はそれほど大きな用事はなく、冬服と夏服の入れ替えと、母の歯科通いのアテンドといったところがメインだった。
だから、肩の力を抜いて、少しのんびりとした気持ちで過ごせたらいいなと思っていた。

が、そうはいっても滞在は移動2日を除くと中6日。
のんびりと、とはいかないのであった。

あっちとこっちの電気ストーブをしまって代わりに扇風機を出し、母と父それぞれの衣替えをして、セーターを何枚も手洗いし、ウールのズボンをクリーニング屋に出し、着られなくなった服を母と一緒に選別して処分するものをゴミ袋に詰め、不要になったカラーボックスを物置に持っていく・・・etc.の合間合間に、一緒に連れていったマリアを散歩させ、洗濯機を回して洗濯物を干し、掃除機をかけたりトイレを拭いたり、母の要望を聞いてスーパーやホームセンターまで買い物に行き、お昼ご飯を準備して食べて後片付けを済ませて、父と散歩したりATMに通帳記入に行ったり、味噌汁や簡単なゼリーなどのデザートを作って配食の夕飯に添え、ご飯を食べたら片付けて、出発前日にはサラダの作り置きをしたり母の入浴介助をしたり。
金曜と水曜には母と一緒に介護タクシーに乗って歯科に行き、待機し、介護タクシーを呼んで帰宅。水曜には、在宅診療と薬局さんのお届けにも立ち会うことができた。加えて、土曜日には、在宅診療のお医者さんが1回目のコロナワクチンを接種しに来てくれて、万が一の副反応に備えることもできた(幸い、何事もなかった)。

まあ、こうして振り返ってみると、ほんと、大したことはしていなくて、ただただ細々とした家事ばかりなのだが、そうこうするうちに日々はどんどん過ぎていった。

そして出発の朝、リビングのソファに座っている父母に、「じゃあ、また来るね!」と声をかけた。
父は、いつもなら徒歩3分ほどのバスターミナルまで見送りに来てくれるのだが、「今日はしんどいから、ここでいいか」と言ったあと、一呼吸おいて私に尋ねたのだった。

「まあ、気休めになる場所があるのはいいだろう?」と。

えっ?・・・一瞬、その意味を掴みかねた。
が、次の瞬間、父母の家が私にとって「気休めになる場所」だと言っているのだと察した。

むむむ・・・気休めねぇ。家事雑用に追われた6日間だったんだが。
と内心複雑で、私は「あはは、そうだね」と曖昧に濁しただけで、「またね!」と勢いよく手を振って玄関に向かった。

しかし、バスの中で父の言葉を反芻するうちに思った。
その実、私にとって父母の家は「気休めになる場所」なのかも、と。

このところ仕事でうまくいかないことがあってモヤモヤしがちだったけど、父母の家であとからあとから湧いてくる雑用をひとつひとつ無心でこなしているうちに、なんとなく、ガチガチに固まっていた心に少し余裕ができたように感じるではないか。
しかも、老いた父母に寄り添っていると、そのゆっくりペースに合わせざるをえず、「待ち」の空白が生まれがちだ。で、せかせかしてばかりいるわけにいかず、ところどころでボーッとする。結果、はからずも気が休まっていたのではないか。

それに、何と言っても父母は父母。
90歳と81歳、あれこれできなくなっちゃって、こちらはサポートするつもりで行っているわけだけど、その存在自体が、私の気を休めてくれているのかもしれない。
親とは、幾重にもありがたいものなのだな。

公園や歩道にアヤメがいっぱい
近所のお庭の牡丹?芍薬?
歩道には、ふさふさのホスタ