映画『一粒の麦』で、88歳の山田火砂子監督が伝えたかった日本初の女医の生きざまとは

気になること

山田火砂子監督の『一粒の麦 荻野吟子の生涯』を所沢市民文化センターミューズのキューブホールで観た。

荻野吟子は、日本で初めて国家資格をもつ女医一号になった人である。

吟子が生まれたのは江戸末期。熊谷の名主の娘だった。
当時にしては父がリベラルだったのだろう、吟子は学問を志すようになるのだが、「嫁ぐのが女の道」と母親に諭されて18歳で結婚。しかし夫に性病をうつされて離縁することになる。
女性にとっては、自由も権利もない男尊女卑の社会だったのだ。

時代は明治になり、先進的な西洋医学の病院もできていた。しかし、医者は男ばかり。治療を受ける吟子は、その状況に強い屈辱を覚える。
当時、夫から性病をうつされる妻は多かった。しかし男性医師に体を見せたくないばかりに悪化してしまったり自殺してしまったりする人すらいた。多くの苦難を知り、吟子は女性たちを救うために「私が医者になる」と志を立てる。

それは困難をともなう大きな志だった。行く手を阻む幾多の障壁が待っていた。なにしろ当時は、学問の領域は男の世界。ましてや医学界は、女人禁制の時代だ。
それでも何とか学べる場所を求めて吟子はグイ、グイッと食い込んでいき、優秀な成績をおさめながら道を開いていくのである。

しかし、なんとか入学できた医学校には女性用のトイレはなく、男子学生たちからこれでもかこれでもかと嫌がらせを受ける。
それでも吟子は諦めずに学びつづけ、3年後、優秀な成績で卒業する。

だけど、それで医者になれるかといえば、そうはいかない。
医術開業試験の願書を提出するも、「女医は前例がない」として却下されてしまうのだ。
もちろんそれでも、吟子は諦めない。
江戸時代の書物をひもとき、かつて前例のあったことを証として固い門を開かせ、晴れて合格を果たすのである。

ものすごい向学心と、鋼のような志。
その源には、女性差別に対する猛烈な闘志が燃えていたのだと思う。「負けてたまるか!」と心のなかで言いつづけていただろう。

だけど吟子は、ただ負けんが気強いだけの人ではなかった。
診療所を開き、苦しむ女性たちの治療をしながら、キリスト教の洗礼を受け、廃娼運動や女性解放運動や孤児救済にも取り組み、再婚相手の志方之善がめざす北海道での理想郷の夢を資金面で支え、さらに自らも北国で苦労をともにしたのである。

『一粒の麦』は、本に例えるなら「ジュニア向け偉人伝」のようだった。かつて70年代に小学生だった私が学校で見せられたNHK教育テレビの道徳のドラマのようでもあった。
思わぬ伏線に驚かされるような場面はなく、淡々と時系列にストーリーが語られるシンプルな構成で、映像表現としての繊細な味わいには若干欠けているように感じた。
でも、荻野吟子の生涯と、当時の男尊女卑の有様をまざまざと知ることができ、胸の奥にずしんと響く力強いメッセージが伝わってきた。

実はこの映画を観に行くまで、私は山田火砂子監督の存在を知らなかった。
上映前の舞台挨拶に杖をついて登場した監督が88歳であり、これまで数多くの社会派映画を制作され、新作である『一粒の麦』を各地で上映しながら、すでに次作の構想も始められられていると聞いて圧倒された。

山田監督が、「現在の日本の男女平等は世界の中で過去最低の121位、女性医師の数に至ってはOECDの中で最下位です。吟子たちが叫んだ女性解放を考えると悲しくなります。この映画を観て、女性達が立ち上がってくれたら、日本は変わると思います」と語るように、150年前の男尊女卑と比べれば大分マシではあるものの、いまだ男女差別は日本社会にはびこっている。

折しも私は石井妙子著『日本の天井』で女性第一号の7人の足跡を読んだ直後に、この映画を観た。昭和・平成を通して「第一号」となって可能性を切り開いてきた7人の女性たちの道をさかのぼれば、明治時代の「第一号」もいたのである。
格別な存在ではない私も、さまざまな道を切り拓いてきた女性たちの足跡につながる道を知らず知らずのうちに歩いているのだなぁと感慨深く思わずにはいられない。

今につながる道に、かつてどんな男尊女卑の社会があったのか、どんな屈辱や苦難があったのか、私たちは知っておくべきだと思う。

これから各地での上映が予定されている。現代ぷろだくしょんのwebサイトの上映情報でチェックして、機会があれば、ぜひ観ていただきたい。