国とは、憲法とは、権力とは、政治とは? 作家が考えつづけた「ことば」をたどる

気になること

井上ひさし 発掘エッセイ・セレクション『社会とことば』(岩波書店2020年4月発行)を読んだ。

週刊文春や朝日ジャーナルなどの週刊誌、新聞広告、雑誌などに掲載されたエッセイをまとめた一冊。
吉里吉里国、憲法、コメ、原発などに関する考察が収録されている。古いものは1980年代・90年代に発表された文章もある。

井上ひさしさんは2010年にこの世を去った。
だから、どのエッセイも10年以上前のものだ。なのに読みながら、今を語っているように感じられることが多いことに驚く。

例えば「宰相の言語能力」と題する一文もしかり。

余談になるが、筆者は一流の政治家の定義を勝手にこう決めている。この国の在り方を骨太に議論しながら、国民の前に十年先、二十年先のゴールを示すこと、それも普通の言葉で。それが出来ないような政治家にとても税金の使い道を任せるわけには行かない。

『週刊文春』1996年1月18日号

今これを読んでとっさに思い浮かぶのは、アレだ。
先週閉会した国会で可決された、新型コロナ感染症対策のための第二次補正予算。合計約32兆円のうち、使途が具体的に示されていない10兆円という巨額の予備費が計上されていた案件だ。
だけど、この一節が書かれたのはなんと1996年、今から24年も昔。連立政権で村山首相の時代のことなのだ。

作家の指摘の鋭さに感じ入ると同時に、日本の政治の好ましくない普遍性を言い表しているようにも思えて絶望しそうになる。

こんな一文もある。

わたしたち国民は、わたしたちから 発している権力の資源を、ときには無視され、ときには利用され、好き勝手に使われています。わたしたちは自民公明の両党にバカにされているんです。しかもこのあいだの郵政選挙ではその両党に大勝させているのですから、もういいように舐められているんです。大事な政治権力の資源を、いったい誰が汲み上げようとしているのか、わたしたちにはそれを注意深く見張る責任があります。

『月刊クレスコ』2009年8月号 大月書店

読みながら共感して「そうだそうだ」とうなずきつつも、もう10年も20年も前から指摘されていたにもかかわらず、政情はちっとも改善されていないと思うと、超ビミョーな気分になってしまう。

いいかげん政権に舐められつづけられることを阻止するには、どうしたらいいのだろうか。「注意深く見張る責任がある」のはわかっていても、昨今の政治状況を思うにつけ、もどかしくなる。

というわけで、共感と超ビミョーな気分に大揺れに揺れながら読了。

実は、井上ひさしさんの本を読むと超ビミョーな気分になる理由は、ほかにもある。
彼が妻に対して激烈なDVをふるっていたことは広く知られていて、私もそのことを知ってからは、いくらまっとうな言論でも、心がなんとも言いがたいビミョーな気分に振れるようになってしまったのだ。
書かれていることにすごく共感しても、世に名を残した大作家だと認識していても、「九条の会」の呼びかけ人の一人でもあり率先して政治的発言も政権批判も厭わなかった姿勢に尊敬の念を覚えていても、DVの影が気になってしまう。

なんともビミョーな心境です。
自分のなかで消化しきれていないネガティブな心情が暗い影を落とし、語られていることばをまっすぐに捉えられない。「いいな」と共感しつつも、「だけど、どうなんだろう?」と斜めに構えてしまう。割り切れない。ともかくビミョーなんです。

とはいえ、この時機に発行された書籍未収録エッセイ集を読もうと思ったのは、「社会とことば」について深く考えるヒントが詰まっているだろうと期待してのこと。
実際、期待は裏切られることはありませんでした。

特に私にとって印象深かったのは、辞典をめぐる「ことばの泉」。
ことばと意味を、何冊もの辞書を引き比べながら整合させ、思考を組み立てていく。そのオーソドックスな作家な流儀に、ことばを扱う仕事をするうえでの姿勢を正していただきました。