2020年のお正月明け、今年の初映画を観た。英国のケン・ローチ監督の最新作『家族を想うとき』だ。それから1ヶ月近く経った今も、あのシーンこのシーンが頭に浮かび、その後の家族を想像してしまう。そのくらい、心に深く刻まれた映画だった。
というか、衝撃的な映画だった。エンドロールが終わってからも、しばらく立ち上がることができなかった。憤りと哀しみに打ちのめされていたからもあったし、「こんな終わり方 !?」という突然の幕引きに呆然としてしまったからでもあった。
舞台は、英国のニューキャッスル。
父リッキー、母アビー、16歳の息子セブ、12歳の娘ライザ・ジェーンの4人家族の物語だ。
夫婦は以前、マイホームを購入したのだが、金融危機で取引銀行が破綻して借金だけが残り、今は賃貸住まいで返済をつづけている。そんな苦しい状況のなか、「個人事業主としてフランチャイズの宅配ドライバーになれば、好きなように稼げる」と持ちかけられたリッキーは、さらに借金をして小型トラックを買う決断をする。
妻のアビーは在宅介護の仕事先への足として自家用車を使っていたのだが、リッキーに「1日14時間週6日働けば、2年でマイホームが買えるようになる」と説得され、小型トラック購入の頭金のために車を手放し、バスを利用してあちらこちらの介護先を移動する日々を送らざるをえなくなってしまう。
結果、夫婦そろって子どもたちと過ごす時間は削られ、日々の仕事で消耗していくことになる。
リッキーが選んだのは、現在日本でも問題視されている「名ばかりフリーランス」だ。過重なノルマで荷物の宅配を委託され、行動は遠隔監視されて自由はない。元締めの企業に搾取されつづける仕組みで、もちろん社会保障などあるはずもない。悪さをした息子のセブを警察に迎えに行ったときも、宅配中に襲われて強盗にボコボコにされたときも、企業は彼をサポートするどころか、休みを取ったことや機器を盗まれたことに対して罰金を課す。映画は、そんな仕事現場の非情なリアリティを積み重ねながら、その仕組みとそこで働くことの不条理さを見せつける。
アビーの在宅介護の仕事も過酷だ。一人ひとりの高齢者の心と尊厳を大切にしながら介護をするアビーは、残業代の支払いがなくても契約時間を超えて丁寧なケアをしている。さらに車を失ってからは移動時間が増大し、過重労働になっていく。子どもたちに移動中のバスから携帯電話でメッセージを残して心遣いを尽くすのだが、娘はストレスからおねしょをするようになり、思春期の息子は不登校になって問題を起こすようになってしまう。
この映画が浮き彫りにするのは、目に見えない現代社会の経済の歯車だ。企業の最大限の利益を目指し、労働者の日々の暮らしや幸福などおかまいなしに回りつづける利潤追求の歯車だ。いつのまにか人々の時間や心の余裕を搾取し、ギシギシと家族を苦難に追い込んでいく。
その非情さと対照的なのが、ときおり挟み込まれる家族の温かな心のふれあいのシーンだ。どんな状況にあっても善意の光を失わないアビーの優しさ、威厳と誇りを失うまいとあらがうリッキーの人間味、両親が大好きで甘えたくて楽しい時間を共有したいと願っている娘のライザ・ジェーンの純粋さ、閉塞感と反発心に自暴自棄になる息子のセブのやるせなさ……見ていると、みんな愛おしい存在なのに、耐え難い苦境に追い込まれていくのだ。哀しすぎる。つらすぎる。
原題は、『Sorry We Missed You』。宅配ドライバーが、届け主の家に置いていく不在票に記されている「お届けにうかがいましたがご不在でした」という定型文で、映画のエピソードでも伏線のようなアイテムとして登場していた。「miss」という動詞には「一緒にいられなくて寂しい」という意味もあるから、夫婦が子どもたちと一緒にいられない心の痛みを表しているとも、子どもたちが両親と一緒にいられない寂しさを伝えているとも受け取れる。家族それぞれの思いはすれ違い、苛立ち、それでも受け入れようとし、温かさを求める。『家族を想うとき』という邦題は、そんな家族の心の綾に焦点を当てて訳されたのだろう。
ケン・ローチ監督は1936年生まれ。英国の貧困の状況を切々と描いた前作『わたしはダニエル・ブレイク』(2016)でカンヌ映画祭で2度目のパルムドールを受賞している社会派の映画監督だ。前作で引退を表明していたが、世界中に広がる貧富の格差への警鐘をならすべく、引退宣言を撤回してこの映画を制作したという。監督の思いと行動力に、さらに胸を打たれる。