「あれ? 実は面白いんじゃね?」と思えてきたオールドタウンの植物の話

気になること

昨年2018年の春先、東京都三鷹市から埼玉県所沢市に引越してきた。小学5年生から大学卒業までの11年ほど住んでいた家に、三十数年ぶりに出戻ってきたのである。

私が小学生のときにピカピカの「ニュータウン」だった住宅街は、いまや「オールドタウン」。
近年建て直したり新築された家も混じるとはいえ、全体的にくすみの目立つ街並みである。「グリーンベルト」と呼ばれる歩道脇の植栽にも「くたびれ感」が漂う。

引っ越してきて1年ちょっと、ほぼ毎朝、犬を連れてあの道この道を歩いているのだが、特に東西のグリーンベルトの植栽は「どうにかならないのかなぁ」と、なんともいえない佗しさを覚えながら眺めてきた。

去る5月15日の朝も、道路脇の花壇の雑草や萎えた花に「なんだかなぁ」と心を曇らせながら、この道を歩いていた……のだが、突然、「あれ? もしかして実はすごく面白いんじゃね?」とビビっと電撃が走った。
数メートルごとに右に左にと花壇は設置されているのだが、意識的に見てみると、どうやら「くたびれ感」という一言で片付けることのできない何かがあることに気づいたのだ。

こんな風にヒョロヒョロと草が生えているだけだと、「花壇」という言葉すら呼び起こされないのだが、ここで心を閉ざしてはならない。

ちょっと進むと、生えている植物が違ってくるのだ。じっくり見てみようじゃないか。
(ナガミヒナゲシは、去年のほうが勢いがあったような気がする。)

こちらには、ヒルガオが繁茂している。

ヒルガオが覆っているのは、ツツジかサツキか?
「く、くるしい……」という呻きが聞こえてくるような?笑

そしてこんな風に、コスモスが咲きほこっていたりもする。

何かが咲きほこっていたであろうことをガーデンフェンスがさりげなく教えてくれる場所もある。

そしてこちらは、誰かが植えた花と勝手に生えた草が仲良く同居。

こちらのようになると、誰かが植えた植物なんだかそうじゃないんだか、よくわかんない。

……といった具合なのだ。
「くたびれ感」という一言で片付けることができない数々の花壇。実に多様ではないか。

きっと、ひとつひとつの花壇に、ほぼ半世紀の歴史がそれぞれにあるのだ。
そして、その歴史あっての今がある。

ご近所の○○さんや△△さんがアレを植えてみたりコレを植えてみたり、放っておいたり。
それによって土の中に住む小さな虫だの細菌だのの種類が変わり、寄ってくる虫だの鳥だのも変わる。風が新しい種を運んでくることもあるだろう。
その場その場に、いろいろな生き物のドラマがあり、人の介入があり、競争だの淘汰だの共生だのがあって、今の姿があるのだ。

そして、今日6月1日。
5月18日にこんなに満開だった花壇で……

種採りをしているおじさんに出会った。

聞くと、花の名前は「ムシトリナデシコ」。
「ムシトリ」の名は、茎がベトベトすることに由来するという。
おじさんは、こうして花が終わると種を取り、根っこごと抜き取り、また11月頃に種を撒く。かれこれ5年ほど、それを繰り返しているそうだ。

私の家の近くには、チューリップの球根を植え回っているおじさんがいる。
そのおじさんは、やはりご自宅が面しているグリーンベルトのサツキの根元の空いている土に、球根を植えている。それだけでは飽き足らないようで、ちょっと先の公園の角地でもチューリップをお世話している。先だって、その姿を私は目撃した。

かつて「ニュータウン」だった「オールドタウン」では、かつて企業戦士だったおじさんたちが「花咲かじいさん」になって、くすんだ街のそこここに彩を育んでいるのだ。

超高齢化も進んでますます灰色がかってくる街に、どうやって愛着を持てばいいのか戸惑う1年余を経た今、やっと、「花壇」の観察を通して愛着のフックが見つけられそうな予感がしてきた。