発見いっぱい原田病日記|その6|視力検査における心理的影響を考察する

原田病日記

原田病(はらだびょう)を発症してから、病院に検査に行くと必ず視力検査を受ける。みなさんもよくご存知であろう、ドーナッツの欠けた部分の上下左右を答えるアレである。

欠けたドーナッツは、 「ランドル環」という

数えてみると、2015年12月末に入院して治療をはじめてから2019年5月現在まで、3年半のうちに私はなんと49回も視力検査をこなしている。
入院中の2週間は毎日、そして退院してから最初は数週間置きに、その後は1~2ヶ月に1回の頻度で検査を重ねてきた。それが積もりに積もって、49回もの実績になるのである。
数えてみて、びっくり。

単純に上下左右を答えるだけなのに、しかもこれだけ数を重ねているにもかかわらず、毎回、ちょっとドキドキ緊張する。不思議だ。

なぜ緊張するんだろうか?
ひとたび自問したところ、意外な心理が見えてきた。
そこで、その考察をここにまとめておくことにした。

緊張の原因は「試されてる感」にある

視力検査では、はじめのうちはドーナッツが大きい。
だからパッパと答えられる。
横に立つ検査技師さんが、「はい、そうです」「はい、では次」とテンポ良くボタンを押していくリズムに合わせてスムーズに答えられる。

冒頭のそのテンポの良さに、実は罠がある。今回考察しながら、そのことに私は気がついた。
何が罠かというと、「よしよしいいぞ、できるぞ」的な優等生気分になってしまうことである。それが、その後の心理に暗い影を落とすのである。

下のほうへと進み、ドーナッツが小さくなっていくと当然のことながら見えづらくなっていく。そして、すぐには答えられなくなっていく。

「み……右……かな? あれ? やっぱり、う……上!」などと迷いながら答えることになる。「見えない」「すぐに答えられない」という現実に直面し、ほのかな劣等感がめばえてくる。
ところがそんなときに限って、検査技師さんが「はい、次」とすぐに言わなかったりするのだ。
すると、私は「あれ?やっぱ違ったかな」と内心焦る。
焦りながら目をこらすと「欠け」がぼやぼやと動いて見えて、「あ、やっぱり、ひ……左だったかも」と小声で訂正してしまったりする。
ところが検査技師さんは操作に手間取っていただけだったのか、あるいは次の休憩時間か何かに気が逸れていただけだったのか、あっけなく「あ、上ですよ。さっきのでいいんです」なんて言ったりする。

じわりと冷や汗が出て、次は「当ててやろう」なんて気持ちが強くなってドキドキしてきてしまうのは、こんなときだ。

だけど、「当ててやろう」なんて邪心は本来、必要ない。
そもそも検査の目的は、視力を客観的に測ることだ。
見えなければ「見えない」と言えばいい。
違っていれば、「見違えた」というだけの話である。

それなのになぜか、「正解」を答えなければならないような気持ちになってしまうのは、なぜなのだろうか。
たぶん、テストの点数で評価される日本型教育によって長年育くまれたせいで、「試されるならベストを尽くし、いい点を取りたい」的な競争心が目覚めてしまうのだ。
その点取り虫の発想が、客観的な視力検査の遂行を邪魔するのである。

速く、速く、答えなければ……?

視力検査の冒頭のスピーディなテンポは、「よしよしいいぞ、できるぞ」的な優等生気分を盛り上げるのと同時に、スピード感を求める心にも火を点ける。

ドーナッツがパッと見えたら、パッと答える。
パッと移動したら、即座にパッと答える。
快感である。

ところがどっこい、下のほうへと進み、ドーナッツが小さくなっていくと、スピーディには答えられなくなる。

じれったい。
パッと答えられない自分がもどかしい。

実際のところ、よく見えていないのに「とりあえず右って言っちゃえ」と、スピード重視の私が心の中で囁く。
「えっ、えっ、そんなー。ちゃんと見えてからじゃなきゃダメだよ」と別の私が反論する。
心に葛藤が生まれるのである。

ドーナッツを凝視しながら手に汗をにぎって葛藤している私に、検査技師さんが言う。
「ゆっくりでいいですよ」

そもそも、視力を客観的に測ることが目的なのだ。
瞬発力を測定しているのではないのである。

どうしよう、覚えちゃってるかも

新たな葛藤が生まれるのは、もう片方の目の検査に移ったときである。
トランプの神経衰弱的要素が、加わってしまうのだ。

あえて「覚えよう」としていなくても、「あ、これはさっき右側だったな」と思い出してしまうことがある。
右目では「欠け」がぼやぼやしていてはっきり見えていないのに、さっき左目で見たとき、この位置のドーナツの「欠け」が右側だったのを知覚してしまうのだ。

右目では実際には見えていなのに、ひとたび「ここは右だ」と思い出してしまうと、まだ見えていない右目にも右側の「欠け」がはっきりと見えているような気がしてしまう。

それは本当に見えたと言えるのだろうか? 
客観的な視力だと言えるのだろうか?
……そんな葛藤がざわざわと起きてくる。

だから視力検査が始まる前に、神経衰弱のスイッチをオフにするよう無意識のうちに心がけていたことに、今回考察していて思い至った。

だが、オフにすればオフにしたで、思い出せないのがもどかしくなる。
「もしかして私の記憶力、すごく鈍ってるかも。
 もしかして私の記憶力、もうダメかも」
……そんな新たな葛藤が、またまた頭をもたげてくるのである。

しかしそもそも、視力を客観的に測ることが検査の目的なのだ。
記憶力を測定しているのではないのである。

以上、こうして考察してみると、視力検査は実に奥が深い。

数をこなせば上達するとか、精度がよくなるとか、そういう部類のものではないと思っていたが、実は上達も精度も目指せるものなのかもしれない。
要は、正解力・瞬発力・記憶力との葛藤をいかに生じさせずに、「視力」のみにフォーカスして冷静に検査を受けられるか、である。

次回は、治療をはじめて50回目の視力検査となる。
これは、無我の境地を求めての修行なのかもしれないな(笑)。