新河岸川の舟運巡り Part2 福岡河岸記念館で見たこと聞いたこと

あちこち散策

江戸時代から明治時代にかけて、川越と浅草をつなぐ舟運(しゅううん)が栄えていたことをご存知ですか。
川に船が頻繁に行き来して、たくさんの物が運ばれていたのです。

その拠点となったのが、荷物を乗せたり下ろしたりする「河岸(かし)」です。
川越を起点に、荒川に合流する新倉(和光市)までの約25kmの長さの新河岸川(しんがしがわ)には、「河岸」が23ヶ所ありました。

そこでどんな物が運ばれていたのか、また、川の名前にどんな由来があるのか、そして現在はどんな風景なのかは、「新河岸川の舟運巡り Part1 旭橋から養老橋まで歩く」で見ていただくとして、今回は、「ふじみ野市立福岡河岸記念館」をご案内します。

新河岸川の「河岸」の一つである福岡河岸で営まれていた、船問屋「福田屋」。その建物が改修され、一般公開されている記念館です。

明治時代の建物が、敷地に3棟

「ふじみ野市立福岡河岸記念館」は、新河岸川の養老橋のほど近くにあります。
対岸から見ると、一番高い三角屋根が目印です。

私が訪れたのは、5月。
川も、記念館も、大小さまざまな鯉のぼりに彩られていました。

門を入ると、一瞬にしてタイムトリップ!……瞬時に、ぐっと心を掴まれます。特に、奥にある3階建ての「離れ」の存在感が、際立っています。
対岸から見えたのは、この3階建ての寄せ棟造の屋根だったことが見て取れます。

福田屋は、福岡河岸にあった3軒の船問屋の1つです。
昭和62年(1987)に、ご子孫から土地・建物がふじみ野市に寄付され、平成元年(1988)に建物が市指定文化財になり、修復工事が行われて平成8年(1996)に記念館として開館しました。

建物は、2階建ての「主屋」(明治初期)、3階建ての「離れ」(明治33年頃)、2階建ての「文庫蔵」(明治30年代)の3棟。
明治中期には、現在よりも敷地が広く、複数の土蔵、製茶場、剣術場などを含めて十数棟の建物があったそうです。

「主屋」に見る、船問屋らしさ

まずは、「主屋」を見てみましょう。

入り口を入ると、帳場があります。
荷物を運んできた馬方(うまかた)や船頭たちが大勢出入りし、印半纏を来た番頭さんがそれを迎えたのが、ここです。

帳場机には、大福帳、そろばん、硯箱などが置かれています。
運ばれてきた荷物の種類や量を、番頭さんが大福帳に記入していったそうです。思わず、座って金勘定をしてみたくなりますね。

この帳場の正面にある柱には、上部に留め具が付いています。なんと、取り外し可能なのです。
柱を外し、ガラス扉を全開すれば、帳場の前にドンっ!と荷物の山を運び込んでチェックができたというわけです。

実は、入り口の敷居も、取り外し可能な仕組みになっています。
敷居を外せばバリアフリー。車輪の通りもスムーズに、大八車ごと荷物を中に運び入れることができたのです。船問屋ならではの機能性を備えた細部が、すごいですね。

構造にも、細部にも、見所たくさんの「離れ」

次に、「離れ」を見てみましょう。

この「離れ」は、福田屋十代当主の星野仙蔵が、接客用に明治33年(1900)に建てたといわれます。
星野仙蔵は、衆議院議員や剣道家としても活躍し、地元では、東武東上線の敷設に尽力したことでも知られています。舟運から鉄道へと大きく変わっていく時代を見極め、鉄道の敷設に尽力した船問屋の主人の胸中には、どんな思いが渦巻いていたのでしょうか。

木造3階建てで、埼玉県内でも僅少な文化財。
大正12年(1923)の関東大震災でもびくともしなかったのは、3階までの通し柱が合計6本使われているからだといわれます。

内部の装飾も手が込んでいます。
こちらは1階、4畳半の和室の欄間に施された透し彫り。
可憐です。

上をみれば、天井も優美です。

和室のガラス戸も、郷愁をそそられるデザインです。

そして瀬戸物のトイレ。美しすぎるのと、足の置き場が決められているのに、思わず笑ってしまいました。

2階、3階へと上がると、さらに贅を凝らしているとのことですが、限られた日にしか公開しておらず、この日は見ることができませんでした。残念。

もやもや気になってしまった、雇用環境

この日は、記念館のボランティアガイドさんに案内していただいたのですが、途中で聞きいた話がやけに気になり、もやもやした気持ちになってしまいました。

どんな話かというと……

こちらは、「主屋」の北東につなげて建てられた台所です。

写真はないのですが、廊下から台所に向かう入り口脇に、2階に通じる小さな階段があって、そこを上ると奉公人の部屋になっていたそうです。
男性の奉公人のための部屋で、8畳ほどの広さの畳敷き。

ところが、台所の手前の廊下に、やはり小さな梯子がかかっていて、そちらを上ると女性の奉公人の部屋になっていたそうなのですが、そこは4畳ほどの広さで、板の間、しかも窓なし。

聞くと、胸が痛みます。男女の雇用環境のあからさまな差に。

この「主屋」が建てられたのが明治初期とのことですから、1870年代でしょうか。
それから100年余経った1985年に、男女雇用機会均等法が成立しましたが、その後も職場における男女差別の改善が不十分だということで、1997年に全面改正され、さらに2007年に再改正されてもなお、まだまだその差は歴然としている昨今。

数値で見ると、日本での男女格差は、
・ジェンダーギャップ指数144カ国中114位
・勤労所得の男女比 =10:5
・管理職以上の役職者の男女比 = 10:1
……という現実です。

明治時代の畳敷きと板敷きの差は、多少は埋まったのか?埋まっていないのか?

そんなことに思いが振れて、船問屋ならではの機能性や洒落た細工への感動はどこへやら。
裏庭から台所棟を眺めては、気持ちがもやもやするのでした。

昔の木づかい、また学びに来たい!

とはいえ、「主屋」を出て、塀の内側に保管されている帆柱をあらためて見ると、かつての木づかいの精巧さが伝わってきて、再びタイムトリップのわくわく感に誘われます。

昔の技も、昔の男女差別も、歴史から学ぶことが大切ですよね!

こちらが、その帆柱。長さは9.5メートル。
船の中央に立てられ、てっぺんに付いた滑車で帆綱を引き、帆を引き上げる仕組みになっていたそうです。

先っぽの滑車。これも、木でできています!
なんでも木で作ってしまえた昔の人、すごいですよね。

いつか、「離れ」の2階と3階にも、訪れてみたいと思います♪
古い日本建築は、自然と共存する知恵が学べるところが魅力です。